NerdとGeek

日本語ではともに"おたく"と訳されるNerdGeekだけど、その意味はちょっと違うよ、という記事の紹介。
On “Geek” Versus “Nerd” – Slackpropagation
英語でもNerdGeekは同義語と思われてるけど、でもちょっと意味が違う。この記事の著者Burr Settlesさんは、両者はこんな風に区別されると考えていた。

Geek : 特定の分野とか対象を熱烈に愛好してる人。"コレクション"志向で、その興味の対象にまつわる事実とか記念品を収集している。彼らはその対象における最新の、最高にかっこいい、流行の諸々にとりつかれている。
Nerd : 勉強好きで知的で、彼らも特定の分野や対象を愛好している。Nerdは"達成"志向で、対象に関するトリビアから重要事項までうまく扱う技術や知識の獲得に力を注ぐ。

どちらも自分の興味の対象に打ち込んでいて、社会的な面に疎かったりすることもある。では両者の違いは何かというと、Geekは何かのファンであり、Nerdは何かの実践家だということだ。コンピューター・ギークはWiredを読んでは、新しいホットな何かについての見出しに惹かれてシリコンバレーの噂の出所をタップする。一方コンピューター・ナードはと言えば、アルゴリズムの教科書を読み、ダイクストラ法を適用する新しい賢いやり方が出て来ないか見張っているのだ。両者は同義語ではないが、といってまったく別というわけでもないことに注意。多くのギークはナードでもある(逆もまた然り)。

で、この考えを裏づけるためにBurrさんはTwitter上に流れるツイートの単語を分析した。約一ヶ月分のデータから"Nerd" "Geek"という単語と他の単語との相関関係を分析したみたい。詳しいことは原文に書いてあるようなのでNerdの人は読んでください。
分析の結果をまとめたのがこの図表。



pdf

縦軸が"Geek"との相関で、横軸が"Nerd"との相関になる。原点を離れるほどGeekっぽさ/Nerdっぽさが強まる。オレンジの単語群が"Geek"側で、青色の単語群が"Nerd"側だが、境界(対角線)付近の言葉はどちらにも近しい言葉ということになる。

コレクションはGeek的。“collect”の派生語(“collection” とか“collectables”)はみんなオレンジだ。"boxset"とか"#original"のような、コンプリート趣味や本物志向をほのめかす言葉も同様。
アカデミックな分野はNerd的。“math”、“#history”、“physics”、“biology”、“neuroscience”、“biochemistry”等々。他のアカデミックな単語(“thesis”、“#studymode”)、学校(“harvard”、“oxford”)もまた青色。
理系用語は言葉による。一般的な用語(“#computers”、“#bigdata”)は対角線上にあるーー同じくらいGeek的でありNerd的ということだ。斜め上の、よりGeek的な方を見れば、商品名とか、スタートアップとか、ブランドとか、よりカルチャーっぽい技術用語("#apple"や"#linux")が見つかる。斜め下の、よりNerd的な方を見ると、もっと方法論的な単語が見つかる(”calclus")

趣味:よりGeek的な暇つぶし(“#toys”、“#manga”)とNerd的な暇つぶし(“chess,” “sudoku”(数独))を比べてみよう
知力:“intelligence”はGeek的だが、 “education”や“intellectual”、そして“#smartypants”(お利口さん)はNerd的。
読書:“#books” はNerd的だけど、 “ebooks” や “ibooks” はGeek
ポップ・カルチャー vs. ハイカルチャー“#shiny” (ピッカピカの)や “#trendy” は超Geek的。しかし(面白いことに)“cellist”(チェロ奏者)はもっともNerd的だ…

と言うことで、当初のイメージは大体正しかったみたい。
twitterAPIを使えば同時代の言葉の用法について個人がPCで検証できるということですね。面白い。

映画.comのタイムテーブルをバー表示するBookmarklet

映画の日なんかに映画見に行く時、ハシゴして何本かみたい時ありますね。
で予定を立てようと映画情報サイトに行くんだけど、だいたい開始時刻が羅列してあるだけで、頭のなかで計算しなきゃいけない。
タウン誌の映画欄だとタイムテーブルが並べて表示されてたりしますが、いちいちタウン誌見るのもめんどくさい。
そこで映画.comの画面から情報を拾って見やすいように表示するBookmarkletを作ってみました。

Bookmarkletの使い方をそもそも知らんという人はググれ

映画.comの映画館の各ページ、たとえば新宿バルト9(新宿)上映スケジュール・上映時間:映画館 - 映画.com、を開いた状態でこのBookmarkletを使用すると、画面上にウインドウが開きます(割と重いので表示されるまでちょっと時間がかかるかもしれないです)。

タイムテーブル中の任意の上映回をクリックして選択すると、その時間帯と重なる他の映画の上映回の表示がグレーになります(これも、色が切り替わるまでちょっと時間がかかるかも)。
なお注意としては、動作が重い、という以外に

    • 映画の各回の終了時刻は映画開始時刻+本体の上映時間+15分(予告等)で計算してます。正確ではないです。これより遅いかもしれませんし、早いかもしれません。
    • 映画.comはたまに映画の上映時間が載ってない作品もあるので、その場合終了時刻不明ということになります。というわけで最終的にはそれぞれの映画館にお問い合わせ下さい。
    • 映画.comの画面から情報を拾っているので、映画.comが仕様変更したら動かなくなります。

はてなラボのHatena::Letというサービスに登録しました。

hatena::letブログパーツ、表示されたりされなかったりするな…表示されなかったらリロード。


(作成までの紆余曲折)

    • 当初、Google映画検索のデータを加工して地元の映画館のタイムテーブルを表示するページを構想。
    • Google映画検索はAPI無いのかよ。PHPで取ってこないと…
    • Googleだと表示されない映画館があったりするので情報元を映画.comに変更
    • 映画.comのデータをPHPで定期的に取ってきて表示するというページを作りかける。ハマって何度か死ぬ
    • 元が映画.comの情報を別サイトで勝手に加工表示するのもいかがなものか、ということにようやく思い至る(遅い)
    • Bookmarkletでそのページ上で加工することに変更。これなら全国の映画館にも対応できるし。
    • ハマって何度か死ぬ(reprise)

というわけで結構苦戦したのでうまく動かなかったら動かないと言ってッ!(逆切れ)

【追記】映画comのページ仕様が変わったんで動かなくなりました…そのうち修正します…

大江健三郎の推敲

いや、tumblr大江健三郎の原稿の画像を見かけたもので。

『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』(文庫では『美しいアナベル・リィ』に改題)の冒頭だ。
この原稿から最初の文章を読み取ってみた。

 肥満した老人が、見るからに重たげな樹脂製のたわむ棒フレクス・バーを左手にせっせと歩いて行く。右側を、やはり肥満した中年男が青いたわむ棒フレクス・バーを握って歩く。老人が右手を空けているのは、足に故障のあるらしい中年男が重心を失った時、支えるためだ。狭い遊歩コースを正面からやって来る者らはドキリとする様子だがたわむ棒フレクス・バーの二人組は歩き続ける…
 老人が(私だ)、数年前、心臓を配慮して水泳を止めた時、クラブのコーチに努めて歩くようにといわれ、それなら息子の足を引きずる癖を直す歩行訓練を兼ねることにしたいと乗り気になった。コーチは、二本の大きい棒をくれた。これを持たせて歩けば、光さ

推敲後はこうなる。

 肥満した老人が、重たげな赤い樹脂製のたわむ棒フレクス・バーを左手に、早足で歩いて行く。その右脇を、肥満した中年男が青いたわむ棒フレクス・バーを握って歩く。老人が右手を空けているのは、足に故障のある中年男が重心を失った時、支えるためだ。狭い遊歩コースを擦れちがう者らが興味を示すけれど、たわむ棒フレクス・バーの二人組は、かまわず歩き続ける…
 老人が(私だ)、不整脈を発見されて水泳を止めた時、クラブのコーチに努めて歩けといわれ、息子の、足を引きずる歩き癖を直す訓練を兼ねようと乗り気になった。コーチは、二本の大きい棒を贈ってくれた。これを持って歩けば、息子さ

フォントの装飾で推敲を表現するとこんな感じ。一旦消してまた元に戻した部分もある。

 肥満した老人が、見るからに重たげな赤い樹脂製のたわむ棒フレクス・バーを左手にせっせと、早足で歩いて行く。そのを、やはり肥満した中年男が青いたわむ棒フレクス・バーを握って歩く。老人が右手を空けているのは、足に故障のあ が見えのあらしい中年男が重心を失った時、 いかけるとった時、支えるため。狭い遊歩コースを正面からやって来る擦れちがう者らドキリとする様子だが興味を示すこともあるけれど、たわむ棒フレクス・バーの二人組は、かまわず歩き続ける…
 老人が(私だ)、数年前、心臓を配慮して不整脈を発見されて水泳を止めた時、クラブのコーチに努めて歩くようにといわれ、それなら息子の足を引きずる歩き癖を直す歩行訓練を兼ねることにしたいようと乗り気になった。コーチは、二本の大きい棒を贈ってくれた。これを持たせて歩けば、息子

大江は長編を書く際は第一稿を書いたあと、ほとんど原型を留めないまでに編集・推敲を繰り返すらしい。この原稿での推敲は細かい表現の調整が主だから、ほぼ最終稿なのかな。
手元の単行本を見ると二箇所ほど違ってたので、さらにこのあとにも修正が行われたようだ。

 肥満した老人が、重たげな赤い樹脂製のたわむ棒フレクス・バーを左手に、早足で歩いて行く。その右脇を、肥満した中年男が青いたわむ棒フレクス・バーを握って歩く。老人が右手を空けているのは、足に故障のある中年男が重心を失った時、支えるためだ。狭い遊歩コース擦れちがう者らが興味を示すけれど、たわむ棒フレクス・バーの二人組は、かまわず歩き続ける…
 老人が(私だ)、不整脈を発見されて水泳を止めた時、クラブのコーチから努めて歩けといわれ、息子の、足を引きずる歩き癖を直す訓練を兼ねようと乗り気になった。コーチは、二本の大きい棒を贈ってくれた。これを持って歩けば、息子さ

推敲の跡を辿ると思考の過程に触れられるようで楽しいですな。PCで書くときも、こういう痕跡がうまく可視化出来たら面白そうだけど。



イーヴリン・ウォー『囁きの霊園』(The Loved One)

ちょっと前にブックオフイーヴリン・ウォー『囁きの霊園』が105円で売ってるのを見つけた。

映画化もされた有名作品ながら長く絶版だったので、amazonで見るとちょっとプレミアついてる。今だと3800円だ。105円で買えてもうかったワーイ(せこいっ)。

これを入手してしばらくして新聞を見ると、この作品の新訳が文庫で出るという広告があった。
うぬぬ、希少価値が若干薄れた(器が小さいっ)。

表紙がカワイイ。
んでどういう偶然か、岩波からも同時期にこの作品の新訳が出るのだった。

『囁きの霊園』『ご遺体』『愛されたもの』とタイトルは違うものの、いずれも”The Loved One”の翻訳です。
というわけでなんだかイーヴリン・ウォー祭りである。この程度で祭りってこともないか。
しかしなぜ今The Loved Oneなのか。終活ブームにぶつけてきたってことなのだろうか。
この作品は映画にもなっている。映画の粗筋については山形浩生さんがこちらで言及している。やー、ヒドい話ですねー。この非人情ぶりが素晴らしい。
映画の方は観てないけどテリー・サザーンが脚本を書いてるそうで(監督はトニー・リチャードソン)、いかにもテリー・サザーンな予告編がこちら。

検索するとyoutubeに全編あがってるみたい。

ところで金井美恵子の『タマや』って小説があるんですけどね。

そのなかで

トニー・リチャードソンって奴はまったく才能がないね、イヴリン・ウォーの『ラヴド・ワン』なんかも図々しく撮りやがって、あれなんかブニュエルが撮りたいと思ってた小説だし、『マルゴ』だって、ジョセフ・ロージーが撮るべきだよ

と毒づく一節があったなあと思いだして、『タマや』を本棚から引っ張りだして確認した。『タマや』はわりと頻繁に引っ張りだしてゴロゴロしながら読む。ゴロゴロしながら読むのに適した小説なのである。

『囁きの霊園』で、軽薄な詩人の男が、女の子を落とそうとしてロマンチックな詩をいくつも贈る。それで女の子は最初は感激するんだけど、ある時それらの詩がどれも古い有名な詩の剽窃だということを知って、男をなじる。すると男は、だって有名な詩なんだから当然君も知ってると思ったよ、と開き直るという場面がある。
実は『タマや』にもエリオットの「荒地」をめぐるよく似たやりとりがあって、あ、引用という奴かな、と思った。『タマや』だと女のほうがユリイカとかに書いてる詩人で、でも「荒地」の引用に全然気づかない、という、皮肉がさらにキツい状況になっている。

『囁きの霊園』読みながらもう一つ思い出したのはジョン・スラデックの『遊星よりの昆虫軍X』で、イギリスから来た若い詩人/作家がアメリカでドタバタする、という話の骨格がよく似ている。そこから見える現代アメリカの風景の空虚さ、狂気も通じるものがある。

『遊星よりの昆虫軍X』も名作なんだがなー。復刊してほしいものです。

ある誤読

映画『國民の創生』についての、町山智浩さんのWeb連載から

異人種混交への恐怖は、原作者トーマス・ディクソンのテーマだった。『クランズマン』(1905年)の前に彼が書いた小説『豹の斑点(はんてん)』(1902年)にも、サイラスと同じく、白人の友人の娘との結婚を望む黒人が登場する。しかし白人の牧師は人種的偏見に満ちた警告をする。「黒人の血が一滴でも入れば黒人になる。髪は縮れ、鼻は横に広がり、唇は厚くなり、知性の光の代わりに野蛮な情熱に火がつく」
http://www.shueisha-int.co.jp/machiyama/?p=545

これ読んでふと思い出したすごーくすごーく瑣末な記憶。

講談社ブルーバックスに『タイムマシンの話』(都筑卓司)という本がある。都筑卓司はサイエンス・ライターで、かつてのブルーバックスの看板作家という印象がある。ブルーバックスにおける著書の多くは今も新装版で入手可能だ。

その『タイムマシンの話』のエピローグに、こういう一節がある。

 本文でも述べたように、タイムマシンというものには本質的な矛盾が伴っている。だから……というわけでもあるまいが、話のもっていきように困って、こんなうっちゃり型のストーリーが類型化してきたのかもしれない。
 たとえばアメリカの人気作家フレドリック・ブラウンなども『黒の狂言』という題で、このての短編を書いている。
 黒人との混血児が、白人娘と結婚したいために未来人になりすますのであるが、この贋未来人は熱弁をふるう。
 彼は四千年の未来から来たことになっているが、この世に大きな戦争があってそのあとの時代には、世界の人種が一つに融合するというのである。白人と黄色人種が殺し合っているあいだに、しばらく黒人が世界を制覇するが、やがてあらゆる民族が雑婚して、黒も白もとけ合い、その未来人の次代までに皮膚の色はならされてしまうと説明する。
 こうして結婚に成功するが、やがて娘の兄と保安官に正体を見破られることになる。

このフレドリック・ブラウンの『黒の狂言』(Dark Interlude,1951,マック・レナルズと共作)は、『未来世界から来た男』というタイトルで翻訳され、同名の短篇集に収録されている。
それを読むとわかるのだけど、都筑氏はこの短編を誤解している。
実際はこういう話なのだーー時間旅行の実験で四千年の未来から現代のアメリカへやってきた男が、現代の娘と出会って恋に落ち、結婚する。娘の兄は突然現れた未来人と称する男に戸惑うが、次第に受けいれる気持ちになる。ある日、ふとした会話の中で、男は未来では人種がなくなっているという話を義兄に語る。「…と言うことは、お前には黒人の血が流れているのか?」と尋ねる義兄に、「ええ、少なくとも4分の1はね」と平然と肯定する男。黒人の血が混じった奴が俺の妹と寝てるなんて! 逆上した義兄は男を射殺する。後になって義兄から殺人の告白を受けた保安官は、未来人云々は白人の娘と結婚しようとした黒人の作り話に違いないと決めつけ、事件自体をもみ消してしまう。

つまり未来世界から来た男の話は真実なのだけど、偏見に凝り固まった男たちにはそれが理解できなかった、という話なんですね。町山さんの文章にある、"異人種混交への恐怖"を風刺する作品だといえる。

都筑卓司が『タイムマシンの話』を出した当時(1971年)、"Dark Interlude"は『未来世界から来た男』として既に訳出されていた。それをわざわざ『黒の狂言』と書いてるからには英語で読んだんだろう。都筑氏がSF好きだったことは著書の内容からも伺える。昔読んだ短編をふと思い出して引き合いに出してしまったのだろう。
まあ、この部分は『タイムマシンの話』という本にとってはエピローグ中のほんの数行の余談であり、それをとやかくいうのも重箱の隅をつつくような話ではある。しかしなあ。



『25時のバカンス』(市川春子)の保養所の2階の間取り

『25時のバカンス』初読時に、あることに気づいてブログに書こうと思ったが途中でやめてーーで、久しぶりに思い出して、やっぱり書いとこうと思って作品を読み返した。
そしたら自分の大きな見落としに気づいて愕然とした。
…でも(気を取り直して)書く、という記事。

***

さて、『25時のバカンス』の主要な舞台である保養所の全景はこうだ。

「元々灯台だったのが壊れて むりやり海洋観測所として使ってたから間取りが適当なんだ」とヒロインの乙女(名前です)も語る通り、廃墟のような不思議な建物だ。
この建物の二階に、乙女と、彼女の弟の甲太郎が泊まることになる。
乙女の部屋と甲太郎の部屋は細い通路で隔てられているのだが、この通路は通路というより細いスリットで、乙女は通れるが体格のいい成人男性である甲太郎の身体は入らない。そこで、甲太郎は部屋にはいるためにまず壁を壊さなければならなくなる。
スリットは外部に素抜けになっていて、そこから海が見えている。

二人が寝泊まりするこの二階の間取りはどうなっているのだろう。作品内の描写から、私は部屋の配置は大体こういう感じではないかと推測した。配置以外(寸法とか)は適当なので大目に見て下さい。

(ちなみに上の間取り図はFloorplannerというサイトで作成した。最近はこの手のオンラインサービスが充実してて便利だ)
しかし間取りがこうだとすると、先に示した全景と辻褄があわないところがある。赤丸の部分にスリットが見えてなければならない筈だ。

別の角度から見た絵でもこの部分にスリットは見えない。

スリットに関しては不思議なことがもうひとつある。
前述したように甲太郎は部屋に出入りするために壁を壊して穴を開けているのだが、この穴はスリットのすぐ横にある。部屋の外から見るとこうなっている。

しかし、甲太郎の部屋の内側から見るとこうなっている。

夜の闇の中なのでわかりにくいが、なにかおかしい。これではスリットはなく、乙女の部屋もないかのように見える。

外観にスリットがないことについては、推測した間取り図が間違っている、というのが、まあ、一番ありそうなことだ。しかしスリットと壁の穴の関係については…作者が描き間違えているのだろうか。
いや、わざとこのように矛盾をはらんだ描き方をしているんだとしたらーーそういう読み方も面白いかもしれない。
乙女の部屋と甲太郎の部屋を仕切るスリットは、存在しながら存在しないのかもしれない。
この作品での乙女と甲太郎の関係は、メビウスの輪の裏と表のようにねじれながらつながっている。メビウスの輪の裏と表を仕切る境界が存在するようで存在しないのと、2つの部屋を仕切るスリットが存在するようで存在しないのは、パラレルな関係にあるのかもしれない。
また、深海生物によって内部が空洞になってしまい人格がその表面に張り付いている、という乙女のありかたは、彼女単体でメビウスの輪、というよりクラインの壺のようなものだ。内部と外部が連続するクラインの壺の表面に閉じ込められた彼女の思いは、裂け目=スリットを探し求め、やがて壺を割る…
***
というようなことを初読時に漠然と思っとったわけです。
で、これ書くために読み返した。
そしたら最後の方のコマで、こんなのを見つけてしまいました。

あ、あれ?

スリット描いてる!

これが最後の場面での世界の決定的な変容のしるしなのか、単に作者がそれまで描き忘れていたのかはわかりませんが、ともかく、そこにスリットはあったのでした。
それにしてもなんで今まで見落としてたんだオレ。



AMSFF 2013

先日『アニメーションと音楽のショートフィルムフェスティバル 2013』というものに行ってきた。
音と映像のシンクロをテーマにしたショートフィルムが22本と、岸野雄一氏のレクチャーと、ギャングポル&ミットのライブ、というメニュー。ギャングポル&ミットは数年前に一度ライブに行った(その時ヒゲの未亡人もーー今回は地元では岸野氏はレクチャーだけで残念。そのレクチャーも時間不足でほんのさわりだけだったので残念の二乗)のだが、前の時より良かったような気がする。
ギャングポル&ミットは映像と生身のアクションと音のシンクロで聴き手を引き込むテクニックが巧みだ。演劇的というより遊戯的、悪戯的、足カックン的であり総合的には心身をほぐすマッサージ的なのだった。
ショートフィルムの方は、実を言うと見る前は退屈な実験映画が多いんじゃないかと危惧していたんだが、そんなことなかった。サウンドと映像がシンクロしてればそれだけで純粋に快感であり、頭でっかちなコンセプトとは反対側の部分を刺激される。
このイベントで上映されたショートフィルムの多くはWebでも観ることが出来るようだ。Webで観ることが出来て、かつ面白かった作品を以下に並べる。なお、Webで見れるからわざわざ上映会で見なくてもいいじゃんというのは間違いで、でかい画面&いい音響でみんなと観たほうがずっと面白いです。
以下動画を並べるので畳もう。Youtubeの動画に加えて、Vimeoで観れるのはリンクを貼っときます。Vimeoの方が高画質なのでおすすめ。

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