曽野綾子『二〇五〇年』(『小説新潮』1月号)

先日Webで見かけた記事の中にこういうのがあって

 −−今年の目標は

 曽野 何十年と小説を書くことだけが楽しみなので…。昨年末に「2050年」という小説を書いたんです。2050年の日本はどうなっているかという話です。悲惨な内容になりましたけど。

 −−超高齢社会になるのでしょうね

 曽野 そうです。皆さんを脅かすようだけど、皆さんの老後の時代になると介護をしてくれる人手がいなくなる。もし、お金があれば、今ならば誰かに看(み)てもらえるでしょうし、東南アジアに行くというのもあるでしょう。しかし、日本だけでなく、東南アジアの若年層も減っていくんですよ。介護ロボットが活躍するかもしれませんけどね。深刻ですよ、年寄りの問題は。晋三先生は今すぐにでも研究班をつくって対策を考えないと間に合わないと思う。2050年はわずか36年先です。あっという間ですよ。
(http://sankei.jp.msn.com/life/news/140105/trd14010511300003-n5.htm


曽野綾子さんというと最近は新書書いてる人という印象がある。毎年ベストセラーリストに入ってて、すごい。
彼女はいわゆる"甘え"にとても厳しい。でもそこが叱られるのが好きな人びとに受けている(印象です)。
このひとの書く近未来小説って一体どういうのだろう、と思った。
先日書店で雑誌の棚を見てたら『小説新潮』の表紙にこの作者の名前があって、確かめると『二〇五〇年』という短篇が掲載されていた。

で、ざっと読んでみた。

タイトル通り2050年の日本を描く短篇。
この時代、人口減少と高齢化のため日本社会は衰退・荒廃し、若い世代には老人世代への敵意が高まっている。
語り手は70代後半の男性。妻を亡くした後自分の家を捨て、放棄された土地を見つけてそこにひとり暮らしている。そんな彼が見る日本の状況とそこに至るまでの経過の回想。それらを通じて彼の死生観も描かれる。
近未来の光景に作者の文明批評が入る、というタイプの小説だ。その批評の部分は、週刊誌等で見かける作者の従来の主張そのまんまに見える。

たとえば、"弱い人"への嫌悪
語り手の男性は、あるニュースが報道されたことをきっかけに自分の家を捨てる。
そのニュースというのが
「大学の柔道部の学生が、先輩から唾を吐かれて罵られたことが原因で首をつって自殺した」
というもの。
このニュースを知った男性は「ここまで人間は弱くなったのか」と愕然とし、それまで住んでいた家を出る決心をする。
いまいち理屈がわかりませんが、こんな弱っちい連中の社会にはいられない、こっちから捨ててやるぜ、ってことでしょうか。
で、男性は放棄された屋敷跡の空き地を見つけ(人口減のため放棄された住居や土地はたくさんある)、そこで野宿生活を送ることにする。男性が何故独りでサバイバル出来るかというと、かつてはサラリーマンの土木技術者として発展途上国で仕事をしたことがあったので、途上国での暮らし方を体得していたからだ。
途上国の厳しい暮らしに学ぶべき、というのもこの作者がしばしば書いたり言ってることのような気がする。
男性は、水は屋敷跡の壊れた水道管から滴ってくるのを庭の池に貯め、排泄は庭に穴をほって、あるいは出先で茂みに済ます。米は週に一回しか食べず、パンが買えたらパンを食う、等々。
一応パン買ったり燃料買ったりはしてるみたいなのだが、経済生活についてはあまり触れられていない。
ちなみに野宿では夏の蚊が最大の心配だったが、マラリアの発生を恐れた政府が、空から薬剤を散布するようになったために蚊には悩まされなくなったそうな。途上国でDDT散布してるイメージだろうか。
作者はかつてヴァーチャル・リアリティは悪であるということを子供に教えるべきだ、とある委員会で発言していたけど、これもこの小説内で強く主張される。
ヴァーチャル・リアリティ、スマホタブレットゆるキャラやコスプレの流行は社会衰退の徴候またはその原因として回想される。ゲームとファンタジーの蔓延は「新しい麻薬時代の幕開けだった」。
作者はそういうサブカルチャーがほんとに大嫌いなんだなということがよくわかる。
"想定外"の事故に対して責任追及はするべきでないという主張も出てくる。
病院で寝たきりのまま126歳まで生かされていた老人が誕生日の翌日何者かに殺されていた(この時代、若者による老人殺しが増えている)、という事件から、何故か「予想外の事故とか死は必ず生じるのだから、その責任を追求しても仕方ない」というような展開になる。
あ、原発事故の話ね、と読んでる方としては思う。
そして、自分の避けられない死を受容する人間こそ美しい、という主張。これはこの短篇の主題ともいえるかもしれない。
超高齢化が進んだこの時代には死は珍しいものではなく、日常的に老人がそこらで息絶えていたりする。死体を見つけた人は「死」と書かれた札を貼っておくと後で公的機関に回収される。
人びとが公園で自然死している世の中を語り手の男性は肯定的にとらえている。
安楽死をさせる終末期医療も流行っていて、語り手の男性は、若いころ会ったことのある外国の指揮者がオランダで夫婦揃って安楽死したという新聞記事を大事に持っている。
男性の友人が、知り合いの老女を花見におぶって連れて行ったら、老女は途中で事切れていたが、その死体を桜の樹の下に置いて帰ってきた、というような話をするところでこの短篇は終わる。

作者の従来の主張がほぼそのまま並んでいるのは、一貫性がある、とは言えるかもしれない。それにしても、その主張をつたえる文章はひどく紋切り型のように見える。
"「一人の人の命は地球よりも思い」というような言葉が流行し、疑いもなく受け入れられたのは、二十世紀後半のことだろうが、当時の人の心は実に甘いものだったのだ。"
というような具合。

裏技的読み方だが、紋切り型をあえて並べる中原昌也の作品だと思って読むと、案外はまる。

読んでてちょっとぎょっとしたところ。
この時代裕福な人間は豪邸を守るために番犬を何匹も飼うのだが、その番犬が何故かいつのまにかいなくなってしまうのだという。
それは「日本とは違った食文化を持っている外国人」が番犬を攫って食べているかららしい、というのが、噂という形ではあるが述べられる。
外国人たちは衰退した日本ではもう稼げないので故国に帰りたがっているのだが、故国に帰ると永年溜まっていた税金を請求されるので帰れない。困窮した外国人たちは栄養も悪くなっているので、豪邸の犬を攫って食べるしかないのだろう、と一応同情的(?)に書かれている。が、フォローにはなっていない気がする。
人間は困ったら食えるものをなんでも食うだろう、という、作者なりのリアリズムなのか。それにしても、なんだか2ちゃんまとめブログの嫌中韓のひとたちが書きそうな部分だ。83歳の作家の想像力とネットの書き込みが似てしまうという不思議。
それより困惑したのは「外国人」の話が出てくるのはここだけってことだ。作家にとって「外国人」は、まずは"困窮したら犬を食べる人達"なのか。