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…なんかもー、年末も新年も気分悪くて、や、帰省してた兄の家族と過ごした時間は楽しかったけど、久々にテレビ観てよく笑ったりもしたけれど、それとは別のレヴェルで常に気分が低いところをぐるぐるぐるぐると巡ってて、もうやけくそで叫ぶ以外やることないというか、でもどこで叫ぶ! 叫ぶ場所なんて無いよ、家の庭にでも出て叫ぶか。寒いよ。ツイッターにでも書き込むか。フォロワー減るかなとか気にしながら。馬鹿馬鹿しい。

感謝を知らず、礼儀知らずで、無作法で、不調法で、威張ってて、コミュ障で、態度でかくて、傲慢で、忘れっぽくて、嘘つきで、腹立たしい、どうしようもなく根性の腐った、低収入で不誠実で不健康で醜くて口が臭い中年男、それはつまり全部俺だ俺のことで、どうしようもない。糞の山に頭突っ込んだ別の糞にでもなった気分が、ここんとこ、常に眼球の裏にべったり張り付いているようで、俺が糞だから全部糞なんだよ結局のところ、ああああああ俺は頭悪いなあああああああと叫びながら、いや叫ぼうにも吐き出す息も足りなくて、結局去年のまま散らかった机の上で富士通のやっすいノートPCのペラいキーボードをペタペタ叩くことになる。今やってるように。

スタックしてる。詰まってる。流通していない。交通がない。停滞している。酸素が不足している。そんな中で新年とか言われても全然それは嘘だろう。新年なんて嘘だ。みんな嘘だったんだゼ。ひとつ世界の嘘を見破ったね。この年齢でか。遅すぎるわっ!

どうにもこうにもそんななので、話しかけられても濁った目で見返すばかりの私ではありますが、皆さんあけましておめでとうございます
今年はクオリティの低い言動を積極的に行おうと思います。誰も読まないたわごととかいっぱい書くよ!いや書かないかもしれないけど。もう、予想とか約束とかしない。抱負もなし。今年のことなんて知ったことかだ。約束したって破るしな俺。あ、今の職場は辞めたい。

11月に観た映画メモ

キック・オーバー

面白かった。これは拾い物。拾えて嬉しい。
最初は舞台設定があまりに荒唐無稽に思えて、ほとんどSFーーというかメル・ギブソンが日活無国籍アクションに出ているような錯覚を覚えたが、あとで調べたらあの無茶な刑務所には一応モデルが実在したのだな。いやはや現実というのは恐ろしい。
メル・ギブソンが一人で組織を崩壊させてしまう様子は『ペイバック』思い出した。あのひとならやりかねんってところはある。
原題は"How I Spent My Summer Vacation"で、実際それが最後に出たような気がするが、"Get the Gringo"がアメリカ公開時のタイトルになってるみたい。前者のほうがこの映画の人を喰ったユーモア感覚をよく伝えていると思う。が、まあアクション映画らしくないタイトルではあるが。
95分。やはりエンターテイメントはこれくらいの長さのほうが傑作になりやすいのではなかろうか。

アウトレイジ ビヨンド

ヤクザの構成員って結局のところ、他人の怒りをひたすら代行させられるだけなのな。その中で、ビートたけしだけが怒りを直取引で相手に届ける。
相手との直取引志向ってのは、映画に限らずたけしの芸風でもあるような気がする。
漫才コンビめいた”おかしな二人組”がそこここに登場する映画でもある。特にビートたけし中野英雄小日向文世松重豊は重要なペアだが、最後で松重豊小日向文世のもとを離れる一瞬が、やけにやるせなく、寂しく感じた。
あんなふうにコンビが別れる場面を、たけしはこれまで何度もみたんじゃないかなあ、と思ってしまったのだ。

黄金を抱いて翔べ

劇中の浅野忠信の子どもがアスペルガーっぽいなあと思ってみてたらちゃんと(?)逆さバイバイをしていたのにちょっと感心。
妻夫木聡が心になにか重いものを抱えてるような表情をずっとしてて、ああこの人は心になにか重いものを抱えてるんだろうなあと思ったら、最後に心に重いものを抱えていたことがわかるという…いや、まあその、そうなんでしょうけども。
丁寧につくってあるとは思うんだけど、キャラクター描写一辺倒で押してくる感じがやや退屈な気もする。

アルゴ

サウスパークのバターズがベン・アフレックへの嫉妬でおかしくなるほど評価してた、という理由で観に行った。
実際サスペンスとしてはとても良かった。バターズが嫉妬してたのにも納得。
でもやっぱり「アメリカ人いい気なもんだ」って気がしてしまう。や、別にアメリカ万歳って映画でもないんですけどね……あのメイドさんの顛末がやるせない。

10月に観た映画メモ

アイアン・スカイ

月からナチがやってくる映画。たのしい。
スターログという昔のSFビジュアル誌のことを思い出した。この映画はなんとなくスターログっぽい気がする。といってスターログをリアルタイムで読んでたわけでもないんだけど。SFというジャンルに輸入モノの玩具の匂いがあったころのあの感じ。
各国の宇宙戦艦のデザインが不必要につくりこんであるところとか、スターログなら絶対それぞれの写真載せて紹介しそう。…と思ったら映画観た後本屋で映画秘宝の某ムックを見ると、アイアン・スカイの各国戦艦の解説があった。受け継がれる何かを勝手に感じました。

そして友よ、静かに死ね

暴力とともに暮らしてきた男たちの物語。仕上がり間近の干し柿という風情の、味のある皺を刻んだ顔がぞろぞろ出てくる。尾張名古屋は城でもつが、ノワール映画は顔でもつという。知らんが。
登場人物たちの立ち居振る舞い、メシ食ったりコーヒー啜ったりする姿に、なんだか実感が感じられてよかったです。

最強のふたり

介護役のドリスがフィリップの前で踊ってみせる場面が感動的なのだけど、なんで感動するかって言うとドリスの健康的な身体が楽しそうに踊ってるからだよなーと思う。
首から下が麻痺したインテリ・白人・大金持ちフィリップの前で貧しく粗野な黒人青年ドリスが楽しげに健康な身体を躍動させて踊る、その踊りがフィリップを笑顔にさせる…というのはひょっとするとーーひょっとしなくてもずいぶんと差別的な図式でないか、と思ったりもする。
でも黒人/白人や富/貧困という属性の対比と別のところで、健康な他人の身体が踊るのをみるのは楽しいし、それが見る人を励ます、というのは普遍的な事実だろう。だから人は踊るのだ。
自分を十全に生きようとしている人間こそが他人を根本のところで励ますことができる。ここにフォーカスをあてているがために、この映画はともすると偽善的・差別的な作品になりかねない設定の危うさを逃れていると思う。

ソチの地下水道

主人公を単純な善人に描いていないのが良い。
…まあ、いまどきこういう映画で主人公を単純な善人にするほうが珍しいだろうけど。それでもこの映画の主人公の「純粋な善人でも悪人でもないが結果として命がけで他人のいのちを守ることを選択した」人物像の描き方は腰が座ってた。彼が善人でも悪人でもないからこそ、その決断の重さが心に響く。
それにしても下水道での生活の閉塞感が半端ない。見てるこっちも息が詰まって具合が悪くなりそうだ。
だから、最後の場面の開放感たるや…!

桐島、部活やめるってよ

とても素晴らしかった。
それにしてもKBCシネマでの桐島の観客は劇中の映画部ぽい人々が私含めて多く、上映中起こる笑いも共感に溢れ、既にしてカルトムービー上映会的な一体感、なのだった。こういうのも最近珍しいですね。

突然だが望月峯太郎バタアシ金魚』最終回のことを思い出した。この最終回はある意味『桐島』を裏返しにしたようなところが少しある。
それを説明するには20年以上前に完結した全6巻のマンガの説明する必要があるので、えー、あれだ。読んで下さいバタ金。
バタアシ金魚』最終回はヒロインのソノコちゃんがゾンビになる悪夢から目覚める朝から始まる。んで彼女は今までの自分はゾンビみたいな生き方してたのかしらと反省するんだけど、思えばあのころ(『バタ金』最終回は1988年)から既に「青春」はゾンビ的な何かになってたなと思う。「青春」が戦う相手はゴジラでもエイリアンでもなく、ゾンビだ。いやゾンビは戦う相手というか、状況のようなものだけど…

ネットとクレカとデモ

数日前の落雷で自宅のADSLモデムがどうやらイカれてしまったようだ。インターネットに繋がらない。モデムが落雷でこのザマというのは2回目なので、そろそろADSLもやめどきかと思った。
光回線にするか。光もいいけど、工事費がかかる。それより何より、私は今よりマシなモバイル環境が欲しかった。先日法事でうちに集まった兄弟や従兄弟がみなiPhoneスマートフォンを手にしていて、今どき珍しくないことではあるけど、彼らが使うそれらのガジェットは、やはり便利そうに見えた。
私は相変わらずガラケーを使っている。最近はガラケーで頻繁にググったりツイッターを覗いたりする癖がついて、おかげで毎月結構なパケット代を払うようになってしまった。まあ定額サービスのお陰で数千円に収まってはいる。しかし、もはや素直にスマートフォンにすりゃいいという額ではある。
この際自宅の回線を光に、携帯をスマートフォンに乗り換えることを考えた。だが料金を試算して考えなおした。総額は今よりちょっと膨らむ程度。しかし今が既にかかりすぎているのだ。私レベルの貧乏人としてはこれはちょっと、考えなおす必要がある。
そこでモバイルwifiを導入することを考えた。イーモバイルだかワイマックスだか詳しいことはまだ知らないけれど、あのちっちゃなルーターを手に入れるのだ。家の回線と外出先での回線をあれ一つで置き換えてしまえばーーできるか知らんが、できるといいなーー通信費は大幅に減る、はずだ。まあ、なかなか快適とはいかないだろうけど。

蒸し暑い休日、某家電量販店に出向いて店員のメガネのお兄さんにモバイルWifiについて話を聞いてみた。携帯電話の帯域を使っているのは通信量規制というものがあるらしい。そうきくと、規制のないWimaxが魅力的な気がしてくる。でもWimaxは速度が案外出ないという話も…あと電波届きにくいなんて言うしなあ。
どうしたもんかな、などと思いつつ話を聞いてたら「どれも契約にはクレジットカードが必要ですが…」とお兄さん。え。持ってないよクレジットカード。「何か作れない理由とかおありで…」いや別にありませんが。まあ、一昨年までは実質無職だったから作れなかったけど。今は…あれ、どうなんだろ今の自分。カード作れんのかな。
「今までなんとなく作らなかったんですけど」と答えた。「でしたら、パ○コのカードが即日発行できるから便利ですよ…カードのないお客さんにはおすすめしています」ご親切にどうも。
クレジットカードか。今思えば、最初の職場を辞める前に作っておけばよかったんだよなあ。クレジットカードがなかったばっかりに諦めたことも多い。今までのクレジットカードへの恨みを思い出す。えい、この際一枚作っておくか。
というわけで私は家電量販店を出て近所のパ○コのカウンターに行き、そこにいたピンクのシャツを着たお姉さんを捕まえて、自分の名前から生年月日から何から。正直に申し述べた。というか、「カード作りたいんですが」と言ったらタブレットPC渡されたので、逐一正直に入力した。そしてカードの即日発行を申し込んだ。「ではカードが出来ましたら携帯にメールを送りますので、7階のカウンターにとりに来て下さい」20分くらいでできるらしい。
近くの本屋で時間をつぶしながらメールを待った。が、なかなかメールが来ない。ひょっとすると携帯のメールアドレスの入力間違ってたかしら。仕方ないので直接パ○コのカウンターに行って確認した。
「あのさっきカード申し込んだものですが」カウンターの向こうで、前回とは別のお姉さんが私の名前をPCでチェックして無表情のまま振り返る。「申し訳ありませんが今回は…」えっ。
同時にポケットの中で着信音が鳴ったので携帯を開くと、メールが来ていた。
《弊社のカード発行基準に照らし合わせ種々検討させていただきましたが、今回は残念ながらクレジットカードの発行はお見送りさせていただくことに》云々。
というわけで、約30分で審査落ちました。わはははは。はは。は。あー。
…どっと疲れる。なんでこんなことになるかな。ただネット回線の契約したかっただけなんだが。
上半身をすべて使って苦笑を表現しつつ、パ○コを出て駅の横を歩く。
すると唐突に、道の向こうから、反原発デモがやってきた。最近のデモ特有の、一種ゆるい空気をまとって、大勢の老若男女が、打楽器のリズムに合わせて声を挙げている。げーん・ぱーつ・やー・めろ! さい・かどーう・はーん・たい! げーん・ぱーつ・やー・めろ! さい・かどーう・はーん・たい!
「あ…」
私は何か呆然とした気持ちで、人々の列が目の前を横切っていくのを眺めていた。なんだろう。なんだか白い大きなものが膨れ上がっていくような感じ。自分の中で。あるいは、デモ隊の向こうで。
これが自分の2012年夏、なのかなあと思った。それがどういう意味かは知らない。ともかく、ひたすら蒸し暑い日ではあった。

※その後いろいろあって無事wimax契約・開通。速度はまあまあ。

水族館劇場『NADJA 夜と骰子とドグラマグラ』

久しぶりに訪れた博多埠頭は風が強かった。昔は博多パラダイスと呼ばれていたタワーの横を通り過ぎると、砂利敷の駐車場に、見慣れない芝居小屋のシルエットがくろぐろと見えた。鉄パイプで組まれた櫓に絡みつく樹木の枝が、この小屋の経てきた永い時間を感じさせる。でも実際は、わずか20日ほどで建てられた仮屋なのだ。高いところで旗が風にはためいていた。ああ、いいなあ、と思い、…
…しかし存外人が少ないな。というか、有り体に言って誰もいないではないか。来るのが早すぎたか。さて受付はどこだろう。
きょろきょろしてると、一緒に来たYさんが看板の一隅を見て「あれ?」と言った。
「本日休演日って書いてありますけど」
「え」

その夜のツイート。


二日後。

二日ぶりに来た博多埠頭は風が強かった。昔は博多パラダイスと呼ばれていたタワーの横を通り過ぎると、砂利敷の駐車場に、見覚えのある芝居小屋のシルエットがくろぐろと見えた。鉄パイプで組まれた櫓に絡みつく樹木の枝が、この小屋の経てきた永い時間を感じさせる。でも実際は、わずか20日ほどで建てられた仮屋なのだ。高いところで旗が風にはためいていた。ああ、いいなあ、と思い、…
…そして今日は、劇場の前に三々五々と集まっている人々の姿が見えた。

受付のテントに行って整理券とパンフレットを受け取った。
整理券として渡されたのは切り開いたマッチ箱で、裏にマジックで番号が書いてあった。なんだかイカニモだなあと思いつつ、期待もたかまる。私はこの手のいわゆるテント演劇を見るのはは初めてだ。イカニモを越えた何かを見ることはできるだろうか。

工事現場の監督風の男性が劇場の前に立って声を張り上げていた。作業着を着てヘルメットをかぶりタオルを肩にかけた男性(劇団を率いる桃山邑氏、ということをあとで知る)が、地べたを指して、この辺まで集まって下さい、真ん中がいいよ、前の人はしゃがんで、などと呼びかけている。連日の公演で声は枯れ果てているようだったがそれでも喉を振り絞って口上は続いた。
やがて芝居小屋の前の砂利敷で、観客が見守る中、プロローグが始まった。

たいまつを持った男たちが駆け込んでくるところから芝居は始まる。続けて多彩な登場人物たちがひと通り現れ、語り、叫び、つぶやく。隔てられ忘れられた人々、密航者、狂人、異国の神々。亡霊たち、オシラサマ、故郷を喪い地上をさまよい続ける民の群れ。
空の夕闇に向かって垂直に伸びたやぐらの上で、赤襦袢の姉妹がバイオリンを弾きはじめた。
集まった登場人物たち全員によるうたが始まった。

プロローグが終わると観客は小屋の中に導かれ、階段状の桟敷席に座って舞台を見ることになる。
舞台の中央に緑の水をたたえた正方形の池があるのがまず目をひいた。正方形の池は、観客席側を除く三面を3つの建物に囲まれている。見世物小屋、娼館、ボロ屋。この芝居の前売り券は赤いサイコロの展開図になっていたのだけど、この舞台の配置も、サイコロの展開図を思わせる。
三方のセットが裏表に回転することで舞台の時空は自在に変化した。ちょうどサイコロを転がすように舞台上の時空は移り変わってゆく。
芝居の中で起きる出来事は夢野久作ドグラマグラを大きな素材の一つとしているけども、ドグラマグラの舞台上での再現と言うよりは、素材を切り刻み再配置するコラージュの方法で作られているように見えた。
だからこの芝居にあるのは、夢野久作ドグラマグラの、偏執的で緻密な論理とは違うものだ。なんでもありのコラージュ世界には時事的な話題も自由に放り込まれる。たとえばドグラマグラのあのブゥーーーーーーンという時計の音は、放射線を測るガイガーカウンターの音に重ねられる。ロシアから来た少女ナジャは、チェルノブイリの記憶をつぶやく。そういうのはまあ、乱暴といえばといえば乱暴かもしれない。でも、ある種の自由さと、必要だからやっているという切実さを感じた。
様々なルーツからから呼び出された断片の組み合わせがみたことのないスペクタクルを形成していく。これは方法としてのコラージュの真骨頂だ。第一幕の終わり、娼婦=母=恋人であるガラが大量の噴水とともに池から宙吊りになっていくところはエルンストの作品のようだと思った。

全体を通して、役者さんたちの熱量には圧倒された。大量の水を使った演出と芝居小屋の空間全体がつくりだす視覚的なスペクタクルにも圧倒された。
劇の構造としてはしかし、これはもっと先があるんじゃないかという気がした。コラージュ的な方法のせいかもしれないけど、登場人物や要素はどれも魅力的で印象に残るが、劇を牽引する軸が見えづらかった。もっとも、その軸の不在こそが大事なのかもしれない、とも思う。

フィナーレの、夜の海の奥から「彼ら」が現れるシーンは素晴らしかった。「彼ら」を召喚するための3時間だったことが得心された。

上演後は観客も参加できる簡単な打ち上げがあった。あろうことか参加してしまう。私だけだとひとりお茶を舐めて終わりだったろうけど、一緒に来てくれたYさんのお陰で、役者さんたちから興味深いお話をいろいろ聞くことができた。
Yさんに感謝。

チェルフィッチュ『現在地』

イムズホールで昼間に観た。前売り買いそびれたから早く行かないと席がないかも…と思ったが、開場30分前で余裕でした。なんかもっと行列とかできてるのかと思ったよ。
チェルフィッチュの舞台を観るのは初めてだ。

仮設的に作ったスターバックス、という感じのセット。舞台奥の壁には大きな窓が開いている。壁の近くに一本の柱。六つの正方形の小テーブルがカフェあるいは教室のように並べられている。そこに7人の女優がコーヒーカップを片手にあらわれて、芝居が始まる。彼女たちは演技者であると同時に自分たちの演技を見守る観客でもある。

女たちが代わる代わる語り、演じる。
これはある”村”の話。
恋人との夜のドライヴ中、青く光る不気味な雲を見たという女性がいる。その雲は噂される厄災の予兆なのか、厄災そのものなのか。それとも厄災の噂などでたらめであって、何も起きはしないのか。
女性は次のようなことを言う−−自分が厄災を信じるべきなのかどうなのかわからない、だがさらに問題なのは、自分と違うことを信じるひとと、どのように向き合えばいいのかわからないということだ。

当然ながら、震災以降に起きた放射能を巡る議論、そこにあらわれた"分断"のことを思い出しながら観る。私がその"分断"をはっきり感じたのは主にネット上の議論だったので、舞台を観ながらネットでで見たさまざまな光景を思い出すことになった。これが関東の生活者なら、"分断"のイメージはもっと具体的な人の顔で構成されるのだろう。

(アフタートーク岡田利規さんが語ったこと。今岡田さんは熊本に住んでいるそうだけど、この演劇を制作するために横浜と往復しており、2つの土地ではもう空気がぜんぜん違うというか"イデオロギーが違う"ように感じる−−と。イデオロギー、ときたか…)

ミニマルなセットの中で7人の女優は様々に立ち位置を変えながら"村"の中で起こっている事態について一定のペースで語り、演じ続ける。やがて、この劇が持つSF的な仕掛けが明らかになっていく。
その静かな語り口に、私は旧ソ連のSF、タルコフスキーの『ソラリス』を連想した。その懐かしいような奇妙さは得難いものだったが、タルコフスキーの映画と同様、ところどころとても眠かった。殺人が起きるところはさすがにはっとして意識が冴えたけど。しかし眠いというのは問題ですね。劇の問題なのか自分の問題なのかはわからんが。

ところでタルコフスキーで思い出したけど、昔は共産圏の映画ってのがあったんだよなあ。それこそ"イデオロギー"が違う社会ってのがあって、そこで作られる、私達の社会とは少し違った考え方によって作られた映画を観るということがあったのだ。
社会主義国と資本主義国、西と東の間にあった"分断"はなしくずしに崩れて、しかしそれで"分断"がすっかりなくなったのかというと、多分そうではない…。
どこに行ってもスターバックスがあるような世界においてなお、より一層はげしく"分断"の線がそこらじゅうを這いまわっている。しかし私たちはそれについて語る言葉を持たない。『現在地』は、そのような事態に対応した一つの語り方のモデルを提示している、ような気もする。どうなんだろう。わかりませんけども。まあアフタートークも含めていろいろ刺激的ではあったのです。

ル・アーヴルの靴みがき

カウリスマキの新作。鼻の赤い酔っぱらいがこんなかわいい映画を撮ってどうする、みんな誤解するぞ、と思うのだが、まあかわいいのは事実なので仕方がない。ル・アーブルの港町の風景のなかにくっきり浮かび上がる黒人少年の頭の輪郭がきれいでした。
ざっくりと切り貼りされるシーンの中で奇跡が起きてしまう様子がとても愉快。「アーティスト」よりこっちのほうがよっぽど古典的な気がするな。