滑らかな言葉

飯島耕一の訃報で、
関係ないんだけど、

以前日本語が堪能な外国人というふれこみの人が、日本の戦後詩についてエントリ書いてて(そこに当然飯島耕一の名前も出てた)、それを読んで、内容はともかく、その書き方に強い嫌悪を抱いた。そのことを思い出した。
書いてある内容自体は、私は別に詩に詳しいわけでもないし(そのひとはとても詳しそうだった)、反論する理由もなかったのだが。

外人が日本の戦後詩の不幸について同情・慨嘆してみせる、そういう書き方に反発したのだった。
部外者が日本語の事情についてそんな書き方するなよ、と思ったのだ。
でもそう思った後、随分排外主義的な考え方してるな、と反省した。外人と言っても日本語ユーザーなんだから日本人と同じ資格あるんじゃないか。
でも、しかし…と思い返す。流暢な日本語と知識で日本の詩の事情を慨嘆してみせるなんて、そりゃ部外者しかやらないことだろう。
こういう感情が正しいかどうかはわからない。
私は、その人のなめらかな日本語と、破綻しない論理と、外人という視座の組み合わせが嫌だったのだ。