チェルフィッチュ『現在地』

イムズホールで昼間に観た。前売り買いそびれたから早く行かないと席がないかも…と思ったが、開場30分前で余裕でした。なんかもっと行列とかできてるのかと思ったよ。
チェルフィッチュの舞台を観るのは初めてだ。

仮設的に作ったスターバックス、という感じのセット。舞台奥の壁には大きな窓が開いている。壁の近くに一本の柱。六つの正方形の小テーブルがカフェあるいは教室のように並べられている。そこに7人の女優がコーヒーカップを片手にあらわれて、芝居が始まる。彼女たちは演技者であると同時に自分たちの演技を見守る観客でもある。

女たちが代わる代わる語り、演じる。
これはある”村”の話。
恋人との夜のドライヴ中、青く光る不気味な雲を見たという女性がいる。その雲は噂される厄災の予兆なのか、厄災そのものなのか。それとも厄災の噂などでたらめであって、何も起きはしないのか。
女性は次のようなことを言う−−自分が厄災を信じるべきなのかどうなのかわからない、だがさらに問題なのは、自分と違うことを信じるひとと、どのように向き合えばいいのかわからないということだ。

当然ながら、震災以降に起きた放射能を巡る議論、そこにあらわれた"分断"のことを思い出しながら観る。私がその"分断"をはっきり感じたのは主にネット上の議論だったので、舞台を観ながらネットでで見たさまざまな光景を思い出すことになった。これが関東の生活者なら、"分断"のイメージはもっと具体的な人の顔で構成されるのだろう。

(アフタートーク岡田利規さんが語ったこと。今岡田さんは熊本に住んでいるそうだけど、この演劇を制作するために横浜と往復しており、2つの土地ではもう空気がぜんぜん違うというか"イデオロギーが違う"ように感じる−−と。イデオロギー、ときたか…)

ミニマルなセットの中で7人の女優は様々に立ち位置を変えながら"村"の中で起こっている事態について一定のペースで語り、演じ続ける。やがて、この劇が持つSF的な仕掛けが明らかになっていく。
その静かな語り口に、私は旧ソ連のSF、タルコフスキーの『ソラリス』を連想した。その懐かしいような奇妙さは得難いものだったが、タルコフスキーの映画と同様、ところどころとても眠かった。殺人が起きるところはさすがにはっとして意識が冴えたけど。しかし眠いというのは問題ですね。劇の問題なのか自分の問題なのかはわからんが。

ところでタルコフスキーで思い出したけど、昔は共産圏の映画ってのがあったんだよなあ。それこそ"イデオロギー"が違う社会ってのがあって、そこで作られる、私達の社会とは少し違った考え方によって作られた映画を観るということがあったのだ。
社会主義国と資本主義国、西と東の間にあった"分断"はなしくずしに崩れて、しかしそれで"分断"がすっかりなくなったのかというと、多分そうではない…。
どこに行ってもスターバックスがあるような世界においてなお、より一層はげしく"分断"の線がそこらじゅうを這いまわっている。しかし私たちはそれについて語る言葉を持たない。『現在地』は、そのような事態に対応した一つの語り方のモデルを提示している、ような気もする。どうなんだろう。わかりませんけども。まあアフタートークも含めていろいろ刺激的ではあったのです。