大江健三郎『文学ノート』より

『文学ノート』は大江が長編『洪水は我が魂に及び』を書いてるときに並行して執筆した、「小説を書くこと」についての一連のエッセイ。だいぶ前にブックオフで買って積ん読だった。
その中の『書かれる言葉の創世記』という章に出てくるエピソードが面白かったので抜き書き。
この章自体は、小説の中で作家が言葉を書いている"現在"を提示しようとする必然について書かれていて、高橋源一郎保坂和志の小説論とも通じるところがあると思う。

(…)ある夏、僕は、もしきみが自分の小説を読んで雑誌に紹介しなければ頸をくくるぞ、という同一の内容の手紙を、春からずっとおくりつけてきていた「作家」とむかいあっていた。われわれの前には堅固にたばねられた原稿用紙の束があった。その一枚目に一行、おれは小説を書く、と書きこんである。そしてそれだけだ。それからあとはずっと白紙で(かれは僕が一枚一枚、その真白な原稿用紙を、それもゆっくり繰ってゆかないと、じつに恐ろしい眼で睨むのだ)、そしてこれは僕も一種の感銘を受けたのだが、最後のページの末尾に一行、おれは小説を書いた、と記してあるのであった。僕が読みおわると、「作家」はすぐさま雑誌社に紹介の電話をかけるようにとうながした。そして、きみは小説を実際になにひとつ書いていないではないか、と訊ねると、おれがいまここにいるじゃないか、雑誌に発表されることさえ約束がとれれば、この、おれは小説を書く、と、おれは小説を書いた、とのあいだを文字で埋める。その小説は、ほら、おれのうちにいま実在している、おれを見ろ、疑うのか? と「作家」は怒るのであった。しばらくたって、ある雑誌の小説公募に、この約束手形のかたちの小説が、投稿されてきた、という噂を聞いたものである。
 僕はあの隠れたる「作家」が実際に白い原稿用紙をその小説でうずめる日があるかどうかを知らない。しかし白い原稿用紙をゆっくり繰りながら、僕はその「作家」の表現への渇望についてだけは、まことに濃密に実感したのであって、やはりあの時、白い原稿用紙をつうじて、あの「作家」が僕にたいして自己表現をおこないつくしたのであったことを、いまは疑わないのである。最後には僕に殴りかかる「作家」をなんとか押し出そうとする僕と、みじめで悲しい訣別がおこなわれたのではあったが。この隠れたる「作家」は、ペンを握る右手の三本の指を、聖化するためであろう、緑色のポスター・カラーで塗りつぶしているのであった。かれはすくなくともあの夏の日、白い原稿用紙を前にして僕を見張っていた一時間の、かれ自身の、この現実世界での実在感ほどのものを、僕にたいして、そのついに完成された小説によって再現することはできぬだろう。
(『文学ノート』大江健三郎、新潮社、1974年)

まあ大方はフィクションだとは思いますが(指三本を緑に塗ってたとかさ…)、しかし「作家」に睨まれながら真っ白な原稿用紙をゆっくり"読む"大江健三郎を想像すると可笑しい。
真っ白な原稿用紙を前に大江と対峙する「作家」の姿には、こないだ観た映画『立候補』でのマック赤坂の、政治的主張は特になさそうなのに時にその背中に漲っていた、切実な訴えの感覚を思い出したりもする。