立候補


泡沫候補と呼ばれる人たちのドキュメンタリー。
外山恒一の有名なテレビでの演説から映画は始まる。
それから2011年、大阪府議選でのいわゆる泡沫候補達の選挙活動の様子が映し出される。
大阪府庁の前で始めるマック赤坂の選挙演説、"Do The Hastle"にあわせて踊りだす彼のビザールとしか言いようのない空気に笑いながらちょっと感動する。D.リンチの映画みたいだ。
泡沫候補の人たちはみな奇怪で面妖だ。なかには供託金300万円払って立候補したにもかかわらず、家に閉じこもって一切選挙活動を行わない人もいる。意味がわからない。
選挙カーもマイクも持たず、繁華街の交差点で行き交う人にひたすら笑顔で挨拶を繰り返すだけのおじさんもいる。確かに人はよさそうだが、傍から見ると街の不審者だ。
不審者というなら、駅の通路で許可無くタンバリン持って踊り出す人もいる。マック赤坂だ。
そんな諸々の場面を笑いながら観るのだが、次第にグッと気持ちを引きこまれてくる。
泡沫候補の人たちも、別に世の中に笑われるために立候補したわけではない。
じゃあ何のために立候補したのかというと、この映画を見ても実はよくわからない。安易に言葉にすると嘘になってしまうものに彼らが動かされていることは何となく分かる。
泡沫候補でない"ちゃんとした"候補たち、維新や自民の人たちは対照的だ。彼らは選挙カーの上で自分たちの政策を、理念を、滞り無く述べる。
選挙が試験だとしたら、"ちゃんとした"候補たちは合格点以上の点で争っている。
泡沫候補たちは最初から赤点以下の答案を提出している。
候補者の答案を採点しているシステムが私たちの社会の集団的な政治的理性というやつだとしたら、それはそれなりの正当性はあるのだろう。それが社会を動かしているのだから。
だけど、しかし、それでも、そのシステムに完全に適応し、常に合格点以上の点数を出している"ちゃんとした"人々の顔は、何かひどく嫌なところがないか。いや、これはこれで理不尽な非難だろうけど。
泡沫候補として立つ、ということは、そのシステムの外側に近いところに立つということだ。泡沫候補に寄り添ったこの映画のカメラは、システムの辺境の風景を捉えることになる。そこではシステムの中枢とは別の風が吹いている。
高橋源一郎はこの映画について『ぼくらはみんな「泡沫」だ』と書いている
そのとおりだと思う。
映画として普通に面白く、最後にガツンとくるものがあります。広くおすすめしたい映画でした。