サマーウォーズ

映画の日に観た。劇場満席でした。面白かった。



ところでわりとどーでもいいというか禅問答のようなことを書くけど、
アニメの中で描かれているキャラクターと言うのはディフォルメされているのが前提だ。『サマーウォーズ』の主人公の少年が憧れの先輩に手を握られて、温度計のアルコールが上がるみたいにキューッと赤くなったり鼻血を吹き出したりするのは、アニメの中では自然な事。
ではアニメ内部で描かれる電子メディアについてはどうだろう。アニメの中で描かれるネットのアパターやゲームのキャラの描写について、そこにディフォルメがあるかどうかは自明とはいえない。仮想空間のインターフェースはもともと(いわば)アニメなのだから、ディフォルメなしで提示することも原理的には可能なはずなので。
サマーウォーズ』はリアルな近未来ネット空間としてのOZを描いているが、そこにはディフォルメがあるのかどうか。
たとえばキングカズマのアパターが戦いに傷付いて汗を浮かべる。あの汗はOZのシステムが律儀にアパターに付加したものなのか、それともカズマたちの心理的実感をアニメ的表現で描いたものなのか。
どうも後者のような気がする。OZのシステムは、アパターの傷はリアルにシミュレーションするかもしれない。でもユーザの心理まではシミュレーションできないだろう。では"汗"がユーザの操作によるものかと言えば、カズマが激しい戦いの最中に「汗汗汗」なんてキーボードから入力してるとも思えない。
というわけでこの映画が描くOZは、OZの状況そのままではなく、ユーザの心理的実感をいくらか付加した形で描いていると推測する。観客が目にするのはOZユーザの共同主観の中で生じている出来事だ。もともとアニメというメディアがそういうものに積極的に寄り添って行くメディアではある。
で、この手の共同主観=共同幻想を積極的に保持しようとするのは、ネットというよりネットゲームの特徴だろう。ネットにはたくさんの共同幻想があるが、同じ数だけそれらの断絶線もある。しかしネットゲームは、一つの幻想を共有することを前提としてはじめて成立する。仮想空間OZも、ネットというよりネットゲームのシステムに見える。
映画の中でOZ内のゲームの領域はネット内から世界中へとどんどん拡大していく。災害は拡がるが人がそれほど死なないのはいかにもゲーム的ではある。破壊的AIのラブマシーンですら、OZの基本システムは破壊しない。ラブマシーンはあくまでOZというゲームのプレイヤーだから。
同じ監督の前作『時をかける少女』は、タイムリープと言うルールの中で主人公が暴走したあげく、いわばゲームのルールを使ってルールを乗り越える瞬間があった。この『サマーウォーズ』ではゲームの領域がどんどん拡大して世界を飲み込んでしまいう。乗り越えるヒマもない。
この映画の見事なにぎやかさ、快調なテンポは、すべてがゲームになってしまう、ということと裏腹のような気もする。
その代償としてキャラの存在感が薄くなっている。ためしにpixivをサマーウォーズで検索すると、主人公やヒロインをさしおいてカズマくんが人気だ。この映画の中で役割以上の存在感を獲得できたのは彼とおばあちゃんだけなのではないか。この二人は自分の根拠を賭けてゲームを戦っている。