レボリューショナリー・ロード

ひょんなことからちょっと前に観た。

ケイト・ウィンスレットの顔は立派ですね。鼻梁がしっかりしている。小さな鉄骨が入っているみたい。その鉄骨を中心に構築された顔は美人だけど、男性的でもある。両性具有的な大人の顔。
ディカプリオは対照的に、丸っこく柔らかくひとなつっこい、子供の顔をしている。だからこの夫婦は夫婦というより親子にも見える。親としてのウィンスレット、子供としてのディカプリオ。

(以下ネタバレ有)
映画の終わりの方で「君は僕を愛している筈だ」といいつのるディカプリオは、親の後ろ姿にしがみつく子供と同じだ。「僕はあなたを愛している」じゃなくて「あなたは僕を愛している筈だ/愛していなければならない」ですからね。主客が転倒している。
夫婦関係が疑似母子関係になってしまうのは日本の特徴かと思ってたけど、アメリカもおなじようなことはあるんだな、と思う。夫が妻を母親にして、その子供に収まってしまう構図。
もっともこの映画の筋だけ見れば、ウィンスレットの方が愚かな子供に見えるかもしれない。成熟できない愚かな女がありもしない自己を発見したいといいだして暴走したあげく、すべてを壊してしまうという話。そういう風に捉えれば、それだけの話ではあります。
でもウィンスレットが直観してそこから逃げ出そうとあがく郊外の空虚は実在する。だからこそ隣人の妻はディカプリオとウィンスレットの無謀なパリ行きのプランを聴いたあと、動揺して泣くことになるのだ。彼らが鈍感さを装って覆いかくしていたものがあらわにされたから。
狂人が喝破する"希望のない空虚"は妄想ではなく実在する。映画の中ではウィンスレットと狂人だけが、それを直視する強さを持っている。
生きたい、でも生きることができない、と夫が言う。生きるためには幸福の外側に出て行かなければ行けない、つまり自ら不幸を選び、失意を選び、狂気を選ばなければならない、と妻は正確に認識する。それでも妻は夫に、私は外に出る準備ができた、あなたはどうだ、と問いかける。その問いに、夫は耐えることが出来ない。
かくして夫は自分自身を産みだすことを拒否し、妻そんな夫の子供を産むことを拒否することになる。殺された子供だけが生きる事が出来、狂った男だけが正気でいられるという逆説。

最後の朝の場面、ディカプリオが会社で扱うコンピュータの話をするところで、"こんどの機種は真空管がたくさんついてて…"って話をするのね。そこでウィンスレットがかすかに眉をひそめる。それはたぶん真空管vacuum tubeから吸引掻爬のvacuumを連想したから。
そういうイヤ演出がみっちり詰まった映画でした。人物の表情をしっかり捉えた画面は間近で舞台劇を見ているようでもあり……最後まで息が抜けないので若干疲れましたが。でもまあ立派な映画でした。ケイト・ウィンスレットの顔みたい、というか。あ、この映画、旦那が監督なのか。