村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチ

スピーチの内容については↓
村上春樹講演英文と和訳まとめ(仮)

twitterでもちょっと書いたけど、壊れやすい卵としての人間、という比喩には、大江健三郎の「壊れものとしての人間」ということばを連想しました。
村上さん、このスピーチの原稿書いてる時にちょっと大江さんのことが頭をよぎったんじゃないかなあ……と妄想する。
そう考えると、冒頭の、作家の職業は嘘をつくることだってのも大江健三郎がしばしば言うことだよなあ。まあこういうのは、作家は良く言うことで、大江だけではないけども。

創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、正確に描写する事も困難です。ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか明らかにする必要があります。これが上手に嘘をつくための重要な条件です。
http://anond.hatelabo.jp/20090218005155

思い出したのは大江作品の、たとえばこういう部分。

 母親は語っていた。
 ……私はわずかしか読んでおりませんが、古義人の書いておりますのは小説です。小説はウソを書くものでしょう?ウソの世界を思い描くのでしょう? そうやないのですか? ホントウのことを書き記すのは、小説よりほかのものやと思いますが……
 ……それでもこの土地の歴史として書かれてきたことや、語り伝えられておることに根ざしておると?
 それはそうでしょう。この世にあるもの、あったこと、あるはずのことと関係なしに物語が書かれますか? あなたも『不思議の国のアリス』や『星の王子さま』を読まれたでしょう? あれらはわざわざ、実際にはなさそうな物語に作られておりますな? それでも、この世の中にあるものなしで書かれておるでしょうか? 話の続きにウワバミと象と帽子なしで、子供が興味をつなぎますか?
 ……あなたがお調べになったかぎりでも、私どもの家の者らの来歴とされているものが、事実と食い違うそうですな?
 それはそうやろうと思います。古義人は小説を書いておるのですから。ウソを作っておるんですから。それではなぜ、本当にあったこと、あるものとまぎらわしいところを交ぜるのか、とご不審ですか?
 それはウソに力をあたえるためでしょうが!
大江健三郎『憂い顔の童子』)

「今日は嘘をつきません」ってのも、『万延元年のフットボール』の中の谷川俊太郎の詩句から引用された重要なフレーズ「ほんとうのことを言おうか」を思い出したりしたけど、まあこれはちょっと強引か。

いや大江読者の妄想ではあります。しかしこういう場にひっぱり出されて英語の世界に向けてスピーチする日本人作家の先行モデル、って大江以外におらん気がするのよね。だから多少の影響というか参照はあってもおかしくない…かもしれない。ような気がする。可能性がある。

村上春樹作品は最初の三作(『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊を巡る冒険』)と『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を随分前に読んだきりですが、この4作の中で『羊を巡る冒険』の以下の部分が印象に残ってます。

「そのあとには何が来ることになっていたんだ?」
「完全にアナーキーな観念の王国だよ。そこではあらゆる対立が一体化するんだ。その中心に俺と羊がいる」
「何故拒否したんだ?」
「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさやつらさも好きなんだ。君と飲むビールや……」鼠はそこで言葉を呑みこんだ。「わからないよ」

人間の弱さの擁護。その点で今回のスピーチに通じるものがあるなあと思います。
ただ『羊を巡る冒険』の時点では"弱さ"ってのはある種の特殊な(ローカルな)感受性だと思うけど、今回のスピーチの卵としての人間という比喩においては、"弱さ"は人間を定義する普遍的な性質になってる。そこに年月を経ての変化を感じます。