サウダーヂ

映画『サウダーヂ』は福岡なら今はKBCシネマでやってます。観ましょう。要点は以上。



ところで大河ドラマ平清盛』第一回を観た。大河ドラマファンというわけでもないんだけどなんとなくテレビつけたらOPのところで"挿入曲「タルカス」"と出て、こりゃどこで出るか確かめねばと思って観続けた。twitterで"タルカス"検索したら同じようにタルカス待ちの人たちがずらずら並んでてちょっと笑った。まあ結局本編では流れず、予告編で流れたんですけども。


この第一回には別の話題もあったみたい。
NHK大河「平清盛」が「王家」を連呼で・・・ #NHK #王家 #平清盛 - Togetter
大河ドラマ「平清盛」における「王家」をめぐって - ITmedia NEWS
"王家"という呼称がけしからんとかそういう議論。私には大変どうでもいい話のように思えるけど、でもまあどうでもいいことではタルカスもかわらんので他人のことはいえない。というかタルカスを気にした人たちより王家を気にした人たちの方がずっと多そうので、勝ち負けで言うと負けですね。


一部の人は"王家"という呼称に韓流ドラマを連想したようだ。私は韓流ドラマを観たことが無いのでそのへんの感覚はよくわからない。…たまに思うんだけど、嫌韓を言い立てる人は私よりずっと韓国に関心を寄せ、韓流ドラマやKPOPの動向に詳しいような気がする。


その中で"「王家」という呼称に過剰反応を引き起こす状況を作り出したのはNHKだから自業自得"というような内容のツイートを読んで、妙な感銘を受けた。私をこんな風に考えるように組み立てたのはお前たちだ、だから抗議する、と言ってるように思える。メディア環境が育んだ思考が、メディア環境に反抗している。


造物主に反抗する被造物つーか、フランケンシュタインの怪物みたいだな、と思い、いやそんな劇的なモンではないなと思い直した。
わたしたちはフランケンシュタインの怪物ではなく、むしろゾンビだ。フランケンシュタインは科学の知によって怪物を墓場から創造したけど、マスメディアの関与はもっと曖昧だ。情報環境は正体不明の放射線や病原菌のように大気に満ち、無名の死者たちを蘇らせる。フランケンシュタインの物語は造物主とその被造物の葛藤という垂直方向の激しさがあって、空間的には墓場の底から北極の果てまでの拡がりがあった。だけどゾンビは、ただ原因不明のまま増殖し、郊外のショッピングセンターに蝟集して水平方向にうごめくばかり。


ゾンビは生前の習慣を繰り返すという。その反復と、郊外で感じる喪失感、失われた懐かしい場所をもとめて彷徨う感情はどこか通じるものがある。
失われた故郷、自分たちの根拠に対する欲望は曖昧にうごめき続けて止むことがない。しかし、どこに向かえばいいのかは知らない。それがゾンビであり、郊外の停滞した風景の中にいる私達の有り様だ。
テレビのいち用語に激しく反応する人がいるのも、語の耳慣れない用法が、自分たちの根拠の喪失にいくらか関わってるような気がするから、ってこともあるだろう。それは多分錯覚なのだけど、でも今、私たちの根拠というようなことに関して、錯覚以外の何があるだろう。
そして私たちは錯覚の周りを、あーとかうーとか呻きながらうろうろと歩き続けている。


映画『サウダーヂ』の底にあるのも、帰るべき場所の喪失という事態だ。
ラーメン屋での土方の会話から始まるこの映画は、現在の地方都市郊外の味のない風景をひたすら映しだしていく。孫請けの土木工事業者、地方都市のラッパーたち、ブラジルやタイからの出稼ぎ労働者、大体3つくらいのグループのエピソードが組紐のように交差して語られる。誰もが帰るべき場所を喪い、それでも"あの場所"へ帰る日を夢見ている。

サウダージ(Saudade、サウダーヂあるいはサウダーデとも) は、郷愁、憧憬、思慕、切なさ、などの意味合いを持つ、ポルトガル語およびガリシア語の語彙。ポルトガル語、およびそれと極めて近い関係にあるガリシア語に独特の単語とされ、他の言語では一つの単語で言い表しづらい複雑なニュアンスを持つ。ガリシア語ではこの語はあまり使われず、通常類義語のモリーニャ(morriña)が同様の意味で使われる。
ポルトガル語公用語となっているポルトガル、ブラジル、アンゴラなどの国々で、特に歌詞などに好んで使われている。単なる郷愁(nostalgie、ノスタルジー)でなく、温かい家庭や両親に守られ、無邪気に楽しい日々を過ごせた過去の自分への郷愁や、大人に成長した事でもう得られない懐かしい感情を意味する言葉と言われる。だが、それ以外にも、追い求めても叶わぬもの、いわゆる『憧れ』といったニュアンスも含んでおり、簡単に説明することはできない。ポルトガルに生まれた民俗歌謡のファド (Fado) に歌われる感情表現の主要なものであるといわれる。
wikipedia:サウダージ


だがこの映画が描く喪失の感覚は、ファドのような郷愁の歌にはおそらく辿り着かない。そこにあるのは、もはや郷愁の夢を描くことすらできないという認識だ。
世界はいつの間にか変質し、帰る場所は喪われている。そしてそしてそこに帰ろうという夢さえ空虚だということが、登場人物たちのディスコミュニケーションによって暴かれてしまう。郷愁は夢にも歌にもたどり着かない。それはただ、悪夢めいた幻覚のようなものしか生み出さない。現実の底が抜け、夢の底さえ存在しない。


…あー、いや、なんだか重苦しい映画みたいな感想になっちゃいましたが別にそういう映画でも無いです。語り口はクールに一定のペースを保って、3時間近い上映時間の間ほとんど飽きさせません。あと、映画に出てくる顔がどれも実に"らしい"顔をしてたのもよかった。特にラッパーの青年演じた田我流サンは素晴らしいとしか。


それにしてもこの映画、一部の映画青年、シネフィルの類だけに消費されるんじゃ嫌だなあ。それじゃ惜しいと言うか、嫌だ。この映画は現実に向かって開かれた得難い映画だから。