大鹿村騒動記

爽やかな佳作でした。豪華な俳優陣に、映画の長さが93分とコンパクトなのも嬉しい。これで1000円上映。トクだよトク(c)花輪和一 …って呼び込まなくても既にヒットしてるのか。というかそろそろ上映終わりそうだなこっちは。


博多駅のTジョイ博多で朝の9:20に上映だったんだけど、博多駅ビル、朝の間は映画館の階まで上がるエレベータは阪急側の一基しかない。時間ギリギリに行ってエレベータを探して走りまわって大汗かきました。Tジョイ博多の朝の回に初めて行く人は、事前にエレベータの場所を確認しとくべき。


最初はちょっと不安になったんだよね。始まってしばらくは映画のリズムが妙に慌ただしい気がして。台詞も微妙に説明的な台詞が続くように感じた。
でも画面に原田芳雄大楠道代岸部一徳他熟練の俳優陣が揃って動き始めると気にならなくなりました。彼らが楽しんで演じているのが伝わってきます。


駆け落ちした親友の妻が十数年経って認知症を発症し、手に負えなくなった男が、女を元の夫に戻しに来る、という考えてみればかなり悲惨なシチュエーションなんだけど、これをちゃんとーーちゃんと、というのも変だけどーー喜劇として描いているのがよい。


認知症ってのはちょっと早めにやってきた老いなわけです。年を取れば誰でもものを忘れるし、性格も変わる。脳を電脳に置き換えでもしない限り、誰でも(認知症を患わなくても)そういうことになる。
そして、"私"を世界の中でひとりぼっちの存在として考えれば、"私"は老いとともに失われるばかりの存在ということになる。
でも実際は、"私"は私の環境と共にある。そして私の環境には外部化された記憶とでもいうべきものがある。それは人との関係の中にもあるし、人の作ってきた風景の中にもある。家族や知人の中に、あるいは見慣れた風景の中に、失われた"私"の痕跡は残っている。
300年続いてきた大鹿村の村歌舞伎も、外部化され共有されて来た"私"の入れ物のひとつだ。だから、痴呆症で失われつつある女の"私"が村歌舞伎の身振りの中で、一時にしろ蘇る、というのは、なんというか、筋として正しい。
老いについて切実に考えて書かれた脚本だなと思いました。つうか俳優たちの顔ぶれを見ても、皆何らかの形で老いに対する当事者だよね。


それにしてもラストで原田芳雄の顔に忌野清志郎のエンディングテーマが響いた瞬間の冥土感は半端なかった。