注意力の被写界深度、『ソーシャル・ネットワーク』


(ネタバレ有り)


自分のことから書こう。
最近とみに痛感してるのだけど、私は、たぶん、他者に向ける注意力が平均より不足している。そのため、他人の表情やボディ・ランゲージを読むのが苦手だ。
言い換えると、私は他者の「こころ」を読む能力がおそらく平均より低い。いわば「こころ」の視力が弱い感じだ。
一人でいる分にはそれでもかまわないけど、社会的な関係の中に出るとたちまち事故の連続になる。近眼の人が眼鏡をつけずに自動車を運転したらかなりの確率で事故るでしょう。そんな感じ。
そのせいか私は現実世界での人間関係をろくに維持できないでいる。


「こころ」が見えづらい私だが、「こころ」を扱う小説や映画は普通に好んで読む。何故だろう。
推測だけど、小説や映画は現実のミニチュアのようなものだからではないか。視力が弱くても、模型なら目を近づけてよく見ることができる。現実の他人に対して、表情を読もうとして顔に息がかかる距離まで近づいてじろじろ見たら嫌がられるけど、相手がフィギュアなら顔に近づけて自由にじっくり鑑賞することができる(まあ、その様子を他人に見られたらオタクだと思われるでしょうけど)。


女性のフィギュアが現実の女性そのものではないように、メディアの中の「こころ」の模型は現実の他者の「こころ」そのものではないーーと推測される。
しかし、そもそも現実の他者の「こころ」がうまく見えない人間にとっては、その違いを確認することも難しい。だって本物がわかんねーんだもん。模型は本物と違うっていわれてもね。私らにとってはこっちが本物なわけでね。
って、なんだか2次元に嫁がいる人の話みたくなってきたけども…


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映画『ソーシャル・ネットワーク』の主人公マークも「こころ」の視力に著しく欠けている人だ。
彼は典型的なアスペルガー症候群として描かれている、らしい。


wikipedia:アスペルガー症候群
町山智浩さんのソーシャル・ネットワーク解説 - Togetter


アスペルガーについての専門的なことは置いとく。現実のマーク・ザッカーバーグアスペルガーかどうかも、議論があるようだ。


それはそれとして……フェイスブックは社交の模型でありミニチュア化だといえる。これは「こころ」の視力に欠ける人間にとっては実にありがたいツールだ(それは、ネット全般がそうなんだけど)。
目の前で酒を飲んでる異性がパートナーを募集中なのか? あなた、今付き合ってる人はいますかってどういう風に訊けばいいだろう? 相手の表情や身振り、会話の端々から推測を重ねて、じんわりとそれとなく聞き出す…いやいやいや、そんな器用なこと出来ません。フェイスブックなら相手のステータスを読めば良い。簡単だ。
曖昧な表情や身振り、装いによる非言語的なメッセージを読む(読めないのだけど)ストレスは、ネットではかなり軽減される。


しかし、それはあまりに表層的で貧しい、人間関係の奥行きというものがない、という意見はあるだろう。だいたいそんなお手軽な行為で得られる関係が本物だとは言えないだろう、と。
確かにそうなんだろう。ネット上での人間関係は人工的で表層的だ。けれど、じゃあ、いわゆる"人間関係の奥行き"を見通す視力を持たない人はどうすればいいのか。
「経験を積んで人間的に成長しろ」うん、それができればいい。それができればいいんだけど… 視力が弱い人に「今すぐメガネを外せ、そして視力を鍛えろ」という人はあまりいない。しかし対人関係が不得手な人、「こころ」を見る視力に欠けた人は「世間の荒波に揉まれて成長するべきだ」と言われがちだ。


人間の成熟という物語はあまりに万能すぎる、と感じることがある。誰もが同じように発達できるわけではないだろう。


映画の中では双子のウィンクルボス兄弟がマークと対照的な存在として描かれる。
その双子たちのボートレースのシーン。



最初のカットは被写界深度を極端に浅くした、実写をミニチュア写真のように撮る技法で撮られているようだ。この技法は一時期流行りましたね。例:http://www.youtube.com/watch?v=TgybX7_JzjA


双子の属する世界はハーバード大学の伝統的な社交の世界だけど、それはとても人工的な、小さなミニチュアのジオラマのように感じられる。双子のキャスティングも、一人の役者をCGで二人に増やしたという人工的なわざとらしいものだ。
双子の属する世界は、「こころ」の視力が十全に発達した人たちが築きあげてきた小宇宙だ。彼らの視力=注意力はこのジオラマの隅々にまで行き届いている。このジオラマは、世界に広がる伝統的な社交のミニチュア模型なのだ。まあ、その中心である学長の部屋はカフカ的な不条理にも通じていたけれど、その迷宮感も、この歴史あるジオラマには似つかわしい。


ここには相対化の視点がある。
二つのミニチュア的世界が対峙している。双子の側の世界は歴史と奥行きと重みがあって、伝統的な「こころ」の世界に「根を下ろして」いる。それに対してマークの側のフェイスブックはどこまでも軽薄で表層的で、しかしインターネットという空間の中で瞬く間に全世界にひろがる。垂直的なハーバードの世界と、水平的なインターネットの世界。
つまりは軽薄で表層的な新興文化が、重厚で歴史のある旧来の文化を破壊してるってことだろうか。「こころ」をかえりみないネット人種が、成熟した「こころ」を持つ人達を虐殺する無残な光景が展開中ってわけだろうか。なんて邪悪なインターネット。
いやいやいや、しかし、従来の成熟した「こころ」の世界だって相当に不自由でヘンテコだ。他者の「こころ」を読めないマークの振る舞いは宇宙人かロボットのようで不気味かも知れないが、CGで増やされた美男の双子が"ハーバードの紳士らしく"振舞う様子だって不気味ちゃ不気味だ。
つまるところ不気味なのが人間だ。


あなたはアスホールだ、とマークがガールフレンドに言われるところから映画は始まり、映画の最後で、女性弁護士はマークに、あなたはアスホールではない、ただ懸命にそう振舞おうとしているだけだ、と言う。
ある人がアスホールなのかどうかを決めるのは、結局のところその人のおかれた関係であり状況だ。単体でアスホール、生まれながらアスホールで死ぬまでアスホールという人はいない。他者への共感を欠いた宇宙人みたいな人だって、ほんとに宇宙人というわけではない。いやほんとに宇宙人だったらそれはそれで面白いけど。アスペルガーだろうがなんだろうがすべてひっくるめて人間のこころの有り様だろう。


映画はマークに対する痛烈な皮肉ととれる終わり方をするけど、私は彼がやったことは愉快だと思う。アスペルガーかどうかはわからないがアスホールの一人としてそう思った。


まあ、フェイスブックは昔登録したまま全然使ってないんですが。