ストーリーについての素朴な話

今頃あれだけど、WBCの最後の試合の10回表はたまたまTVで見ていた。イチローが打った瞬間に「おおおー」と思わず立ち上がって叫びつつ、しかし何故今俺は感動したのだろう、と思った。日頃は野球にはあまり関心が無い。あんまりというか、全然ない。ルールもろくに知らないし、WBCのその試合を見たのも偶然だった。それでも立ち上がって「おおおー」と叫んでしまった。
野球は多分、物語生成の基本的な構造を備えているのだと思う。まあスポーツやゲームの類いはみんなそうだろうとは思うけど(でないと楽しめない)。野球はその中でも特に、いろんな場面で物語を作りやすいように出来ている気がする。

ちょっと前に大塚英志の『ストーリーメーカー』という新書を読んだ。私は、同じ著者の『物語の体操』という本にあったプロット作成の遊びをそのままWebページにしてみたことがある。これは作ったまま長い事放置してるけど、いつかヴァージョンアップしたいなあと考えている。そのヒントを探して『ストーリーメーカー』を読んだ。
『ストーリーメーカー』は大塚氏の考える物語の基本作法を解説した本。プロップの物語分析やキャンベルの神話分析をもとに、物語の基本的な構造と、それを構成するためのポイントを抽出し、紙上で「物語生成機械」を作る試みがなされている。『物語の体操』の延長上にある本だと言える。
大塚氏が紹介する瀬田貞二氏の指摘によれば、物語の語りの部分の基本構造は「行って帰る」という事だ。図にするとこう。

最初に何らかのマイナスを抱えた主人公が、そのマイナスを解消するために、日常から非日常の世界に越境して、再び日常の世界に帰ってくる。単純きわまりないけど、それだけに多様な物語に当てはめることが出来る図だ。
で、野球のグラウンドに単純にあてはめるとこうなる。馬鹿みたいですが、あえて。

野球以外のスポーツでもこういう構造はもちろんあるのだけど、野球は”行って帰る”構造をそのままグラウンド上に視覚化している。良く出来た物語生成機械だなあと思うゆえんだ。
……いや単純素朴なことを得々と語ってるみたいでアレだ。まあこういう事は野球と物語性を語る上では基本事項なんだろう。実際、高橋源一郎の『素晴らしき日本野球』なんかはこの先のさらに先のちょっと曲がったあたり(なんというか、物語から遠く離れたあたり)で書かれている小説だと思われ。

それからしばらくして、図書館に本を返しにいったついでに保坂和志の『書きあぐねている人のための小説入門』という本を借りて帰ってきた。例によって例のごとくという感じの保坂氏の小説論が書かれている。この本はとてもわかりやすいのが良い。
その本の中で、野球にからめてストーリーについて書いている部分がある。

 野球でもサッカーでも中継しているアナウンサーと解説者は決まって、「野球(サッカ−)は何が起こるかわからない」と言う。
 しかし、これは正しくない。野球でもサッカーでも、次に起こることはわかっている、というか想像がつく。一点リードしている九回裏に押さえの投手が出てきたら、次に起こることは抑えが成功するか失敗するかのどちらかだけだ。失敗するとしたら、四球かヒットかエラーでランナーが出るところからそれは始まるだろう。(中略)
 もし、抑えの投手が出てきてマウンドの上でいきなり包丁でマグロをさばき出したら、これこそ本当に「野球は何が起こるかわからない」で、後世まで語り草になるだろうけど、そんなことは野球では絶対に起こらない、
 しかし、もし本当に抑えの投手がそんなことをはじめたら、みんな「野球は何が起こるかわからない」なんてことすら思うことが出来ない。ーーじつはここにストーリーを人が面白いと感じる本質がある。
 人がストーリーの展開を面白いと感じられる理由は、展開が予想の範囲だからだ。その枠をこえた本当の予測不可能な展開だと、感想以前の「???」しか出てこず、面白いどころか「意外だ」と感心することすらできなくなる。
 ストーリーが「面白い」と思われながら同時に「意外だ」と感じられるためには、ストーリーはある種ルーティン化していたほうがいい。「何が起こるかわからない」とか「これからどうなる?」と思いつつ、読者のほうも、次の展開をすでに二つか三つぐらいの選択肢に絞りこむことができている。

ここだけ引用するとストーリーテリングのコツを語ってる本みたいだけど、この本全体の趣旨は逆だ。保坂氏の考える小説は読者がその小説を読む瞬間の経験に焦点を当てたものなので、小説の中の時間を既定の構造の中にはめ込もうとする「ストーリーのある小説」とは根本的に対立する。保坂氏の考える小説は「ストーリーに引き込まれる」ものではなく、「あっという間に楽しく読めてしまう」ものでもない。
スタートからゴールまで既定のコースを適度なスリルとともに移動するジェットコースターがストーリーのあるエンターテイメントだとすれば、保坂氏の考える小説は大海にこぎ出す小さな筏だ。出発したとたん転覆するかもしれない。同じところをぐるぐる廻り続けるかもしれない。そもそも目的地もはっきりしない。そこには圧倒的な退屈とスリルがともにある。
つまりは伝統的な構造を持った音楽とフリージャズの違いみたいなもんだよな、と思って読んでたら、後半で保坂氏も自分の書き方をジャズのモード奏法に喩えていた。そういえば上に引用した部分は山下洋輔がジャズのメロディと即興の対立について書いていたことととても近い。

大塚氏の物語生成装置というアイディアと、保坂氏の反・物語としての小説の啓蒙は、真逆の方向に向いているようにも見える。
ただ大塚氏が物語生成装置を語る裏には、人々の思考は物語の枷から自由になるべきだという主張がある。様々な権力やメディアが人々に提供する物語を、それが単に「物語という器」に過ぎないと認識すること。器より、器の中身が常に問題なのだ。そう考えると大塚氏も保坂氏も見ている方向は案外似ているかもしれない。

なんだか高校生のレポートみたいになってしまった。

ところで「プロット作成練習」のページはそのうちほんと新しくしたいと思ってます。放置して長いけど。いやほんと。