“勝負とは勝ち負けではない”*1

ちょっと前、外山氏の都知事選演説を久しぶりに見る機会があった。まだYoutubeにあるのな。
「多数決なんてやれば多数派が勝つに決まってるじゃないか」
っていうアレ。
そうなんだよな。多数決はつまらない。
しかし多数決を捨ててたとえばドツキアイで決めようぜ、という事にしたら
「ドツキアイなんてやれば強い方が勝つに決まってるじゃないか」
ということになる。それはもっとつまらない。痛そうだし。
せめて多数決の前に議論を尽くせば…しかしそれだと
「議論なんてやれば口がうまい方が勝つに決まっているじゃないか」
となってやはりつまらないのであった。
こうなったら人類の叡智を集結してスーパー人工知能を発明もしくは神様的存在をなんらかの方法で地上に召還して"正しい方"を裁定してもらうというのが人類の進化ってやつだと思うが、
「"正しい方"を選べば正しい方が勝つに決まってるじゃないか」
ということになって、これはもう究極的につまらない。

何にせよ勝ち負けの条件が定まったとたん、勝つように決められた方が勝つ、という単純というか同義反復な状況になって、それは実につまらんなあ、と思う。勝ち負けでしかないような勝負はつまらない。

つまんないというのがわからない人はいましろたかしの漫画を読むといいような気がする(が、どうだろう)。

ぼくトンちゃん (ビームコミックス)

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釣れんボーイ 上 (ビームコミックス文庫)

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ましろ作品の登場作品がギャンブルやら"修行"やら釣りやらに向かうのって背後にこの"つまらなさ"がある気がする(が、どうだろう)。

ところで夫婦とか家族とかいうのは闘争だなぁと思う。そこには複数の決して混じりあわないもの同士の闘争がある。

いや、うちの親とか見てて、そう思うんですわ。長い事夫婦をやっていても、そんでもってお互いもういいじゃないかってくらいじゅうぶんに老いても、それでもそれぞれの性格の根のところにある違いは消えず、闘争も消えない。
ただ、延々とやってるうちに闘争の構図は変質していって、単純にどっちが勝てばいいとか、正しいとかいうものではなくなっていく。

そこから生まれてくるのはなんといえばいいのか、奇妙な何かだ。長く続いた夫婦とか家族とかいうのはねじれた木の根のように歪んでよじれている。その捻れた根っこに連なるものとして個人としての自分はいて、それは他の人だって同じはずだ。皆、何世代にもわたる闘争の果ての、なんだかよくわからない塊にぶらさがるものとして生きている。
その闘争が選んだあり方は、戦争ではなく、多数決ではなく、議論でもない。

勝負のつまらなさを乗り越えるヒントがその何かの中にあるような気もする。けれどそれが何なのか、はっきりとはわからない。愛とか希望とかいうようなよさげなものじゃないのは確かだろう。もっとなんというか…変なもの。
まぁ今後もわからないままなのだろーなーとは思います。わかんないまま死ぬまで生きる。