トウキョウソナタ

トウキョウソナタ』を観てきた。映画館に入る時に、週刊文春の映画評でおすぎが★一つだったのを思い出した。不安になりなから映画館の椅子に座る。
予告編が終わると映画が始まる。
吹き込む雨にカーテンが揺れている。住宅の中に雨が侵入してくる映像。


・色彩
画面の色彩が注意深くコントロールされていることに気づく。最初に基調となる色は黄〜オレンジと黒だ。この映画で日常世界はオレンジ色に染まっている。そのオレンジは生命の色であると同時に、抑圧的な日常という制度の色でもある。
オレンジの支配から脱出する者たちは青い何かを身につけている。それは青い服であったり、青い音楽ノートであったり、青い車であったりする。彼らはオレンジ=日常=生命の世界を抜けることで必然的に死に近づく。映画の半ばで唐突に闖入する強盗(役所広司)は青い車でそのまま死の側にいって帰らない。強盗の運動に巻き込まれた母親(小泉今日子)は、青が黒に限りなく近づく夜の海にギリギリまで接近するが帰ってくる。
しかし父親(香川照之)だけは濃いオレンジ(というか赤)の作業服に全身を包み込まれ、導く青を見つけられないまま、黒々とした夜の中にはじき出される。


・荒唐無稽
この映画の後半の荒唐無稽は大島弓子のマンガにおける荒唐無稽によく似ている。物事がそんな風に続くなんてとても信じられないが、しかし、見せられちゃったからには信じるしかない、信じましょう…とつぶやいてしまうような荒唐無稽。
最後の、朝になって父親が帰ってくるくだりは常識的にも物語の規則からいっても筋が通らない。しかしそうなっちゃってるんだから信じるしかない。
でたらめをそのように信じることができるということ。それは映像が稀に与えてくれる豊かな体験だと思う。


・寓話性
観た帰り道、何故かマンガ版ナウシカのラストの事を思い出していた。マンガ版のナウシカは、ラストで復活のために保存されていた旧人類のデータを破壊し、旧人類によって作られた自分たちの有り様を全肯定する。
トウキョウソナタ』の"自然"に対する態度も同じだ。明るいオレンジ色に染められた日常世界はまるで"自然"で"生命"そのもののようだけど、実のところ多くのものを排除した虚構だ。本当の、生の総体としての自然を肯定するためには、そのオレンジ色の虚構を一度破壊したうえで、その結果を受け入れなければならない。
この映画の強い寓話性は同じ監督の『カリスマ』を思い出させる。『カリスマ』もこの映画も、映画が世界の模型になりうると本気で信じている人が撮った作品だ。


・自然
日本でやさぐれていた長男が米軍に入って、派遣された中東でさらに新しい方向を選ぶ、というのは言葉にすれば典型的な"自分探し"のようにも見える。しかし画面に現れる長男のまなざしはそのように内に向かうものではない。彼が行うのはむしろ"世界探し"とでも呼ぶべきものだ。世界の輪郭、境界線を探す事。彼の視線は外に向かう。
長男は家族/日本/日米/世界という方向へと外に向かって拡大する運動に身を投じる。次男は対照的に、自分の掌の中にピアノの才能という外部を発見する。
つまりこの映画では、個人/家族/国家/世界という極小から極大に向かう繋がりの、その両方の端(世界/個人)から自然の力(戦争/才能)が侵入してくる。
この映画が住居の中に雨風が侵入してくる場面から始まったことを思い出す。


・眼
次男のまなざしは『誰も知らない』の柳楽優弥を少し思い出させた。『誰も知らない』での柳楽の、そこに何か生々しいものが常に露出しているような眼は強い印象を残した。この映画の次男のまなざしは、あそこまで凄くはないものの、似ている。
しかし一番強く印象に残ったのは最後の場面での香川照之の眼だ。息子のピアノ演奏を見つめる父親の生々しく湿った眼は何か傷口のようだった。不思議な事にこの時父親の眼は長男や次男の眼と似ている。演じているのは本物の親子でもないのに。
眼と言えば、母親が夜の海岸で海を見るシーン。暗い画面の真ん中を白く光る波頭が水平に横切る。あれはまるで薄眼を開けてみる世界のようにも見えた。薄く開いた瞼から入ってくる外の光。