ポニョ。

ポニョ観てきた。

以下メモだけどネタバレーニョ。

不条理だ謎だといわれてるストーリーだけど、5歳児目線の物語としてはリアリティあるし筋も通った話なんじゃないかと思いました。
5歳児に友達が出来る話。
ポニョは得体が知れないけど、他者ってだいたい得体が知れないですよね。他者を知るというのはその得体の知れなさを受け入れるという事でもあるわけで。その得体の知れなさを突き詰めていけば他者の起源、神話的な海の世界にもつながる。わしらみんなああいうわけのわからんごちゃごちゃしたところから来ていつの間にか人の形になったんだ、という。

面白いと思ったのは水上で赤ん坊を抱いた母親に会う場面で、あそこでポニョは人間の母親の役割を知る。食べ物を咀嚼して乳にして子供に与える母親、つまり自然と子供の間に介入して、子供を人間のかたちに捏ね上げる母親。ポニョは自然の側から魔法で直接人間の世界にやってきた子供だから、そういう母親を知らない。ポニョが人間になる=こちら側に来るにはあのシーンが必須だったんだろうと思います。それを赤ん坊にポニョが顔をすりつけるというアクションで表現してるのは良い感じでした。

宗介は客観的な良い子っていうより、5歳児のセルフイメージ・キャラみたいな感じ。なんていうか、"がんばるボク"の脳内イメージっていうか。監督の自己投影…については考えない方が平和な気がする。

ところで宗介の頭は母親が刈ってるのかね。

宗介の母親は批判もあるみたいだけど良いキャラだと思いました。あの造形には監督の「今、こんな女性を描かなきゃならない」っていう意志を感じる。いや、なんでかはよくわかりません。でもその明確な意志は面白いと思う。
宗介を放置して出かけてしまうのも、繰り返しになるけど5歳児目線ではリアリティがあると思います。母親は愛情とともに不安を与える存在でもあって‥‥そばにいた母親がふっと遠のいて影のような存在になって遠くで誰かと話している、そういう、子供の頃風邪引いたときに見た夢のような感覚がよく出てた。

フジモトとグランマンマーレのデザインが手塚調だったのが非常に気になりました。宮崎駿が手塚の批判者として知られるだけに。グランマンマーレと同じような生命力の象徴として、『もののけ姫』のシシ神の造形は宮崎駿の本気があふれすぎるほどあふれてたけど、この映画のグランマンマーレは…あれはあれで魅力的なデザインだとは思うけど、でも手塚風じゃねえ?と思ってしまう。さて、どこまで本気なのか、と。
フジモトとグランマンマーレ見てると手塚の遺作『ネオ・ファウスト』思い出すんだよね。過剰な生命ロマン主義(ともすると宮崎作品はそういうものだとして解釈されやすいけど)をパロディ化してんのかも、いや読み過ぎか。

月が降りてくるあたりはなんつーかオペラちっくだなと思いました。この映画は"月に憑かれた"一日の物語なのだな。

観た後でポニョの妹たちの声優が矢野顕子だということを知ったが、台詞あったっけ? 思い出せん。それはともかくあの妹たちは"うさくん"のキャラに似てる。

ポニョの造形は諸星大二郎栞と紙魚子』のクトゥルーちゃんっぽい。人と魚の中間形態のときが特に。

ところで先日、宮崎駿28歳の頃のマンガ(絵物語)『砂漠の民』を全話読む機会があったんだけど、彼の活劇が面白いのは、複数のレベルで同時にいろんな物事が起こるのを描写する感覚が優れてるからだなー、と改めて思いました。活劇というジャンルがもともとそういう感覚を要求する。で、彼がそれによく応えたということだけど。『砂漠の民』には既にそういう才能がはっきり現れています。

でもポニョはそういう感覚がほとんど、ない。気がする。いや、あの制止を振り切って車を走らせるあたりとか、いくらかはないこともないけども。
もう、状況全体を立体的に動かす、という事への興味は失ったのかな。あの圧倒的な嵐のシーンを見ると、アニメーションへの意欲はまだまだ失ってないと思うんだけど。

最後の船が帰ってくる場面とか、昔だったらいくつかの出来事を重ねることで雰囲気を盛り上げたんじゃないかと思うんですけどね。しかしもう、そういう事は一切やらずにあっさりすぐにラストカットにつなげてしまうのだった。

どーでもいいが、予告編で『20世紀少年』流れたんだが、予告であんなに萎える映画も珍しいと思った。予告観てるうちに絶望的な気分になって家に帰りたくなったってんだからある意味すごいな。