『ダンシング・ヴァニティ』

ダンシング・ヴァニティ

ダンシング・ヴァニティ

快作。いや傑作と言っていいかも。最近の筒井作品には正直あんまり期待はゴニョゴニョ…なんて失礼な事を読む前は思ってましたが、や、これは面白かった。方法論と主題がきっちり噛み合っている感じ。バットの芯がボールを捉えたって感じ。往年のスラップスティック描写がキレを取り戻しているのも筒井ファンには嬉しい。
以下ネタバレあるかもしれない感想です。
最初は『夢の木坂分岐点』タイプの状況がゆるやかに推移していく夢小説かと思い、メモでも書きながらじっくり読んだ方がいいのかなとも思った。しかし冒頭すぐ、亡くなった父親が自分の姿を破る場面からピッチが上がって、どんどん引き込まれる。そのまま最後まで一気に読んでしまい、メモとる暇なんかありませんでした。父親が自分破る場面に続く出版社の場面ではスラップスティックが始まるけれど、榎本俊二のマンガを思わせる鋭角的でナンセンスな身体の動きが楽しい。

一つのシチュエーションが微妙に変化しながら何度も反復描写されて最初は戸惑う。しかし読んでいくとどうもそれぞれの場面の可能的なヴァリエーションを書いている事が分かる。
ある場面のヴァリエーションを列挙する、というアイディアは別に目新しい物ではない。SFだと平行世界もの、タイムループ物などでそういう描写がありますね。しかしヴァリエーションの反復を叙述の中心として書かれた長編小説ってのは珍しいんじゃないかと思う。(いやまあ既にあるかもしれませんが。たいていの実験は先行者いるんだよな)

場面が反復することによってその場面は唯一性を失う。つまり、「たった一つの現実」という言葉は意味を失ってしまう。その結果夢と現実、現実と虚構の境界は簡単に見失われる。夢/虚構/現実の境界を混乱させる事は筒井作品では幾度も試みられてきたことだけど、こんなに分かりやすくて簡単な手があったとは。ただ反復すればいいのだ。

一つの場面を構成するパーツが分解され、少しづつ違った形で再構成され、反復される。そうすることで通常のリアリティは崩壊し、別の、いわば一つの場面を構成するルールのリアリティ、のようなものがあらわれてくる。このへん作者が参考にしたという東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』読めば理解が深まるんだろうか。機会があったら読んでみます。

先に書いたようにこの小説では事象は反復される事で唯一性を奪われている。でもその中でただ一つ、語り手の死だけは一回しか起こりえない。死はこの小説の主題の一つになってる。「ある場面の可能なヴァリエーションを複数書く」というやり方はアドヴェンチャーゲームの分岐の書き方にも似ているけど、それらの場面群の底には常に死が意識されている。「死夢」をめぐる挿話はそれを端的に表している。
最初は単調だった場面の反復は主人公の美術評論家が成熟するにつれてこみいった、複雑な構造になってゆく。そして終結部、彼が老いて死に近づくとともに反復は弱まり、可能性の群れは一つの死に向かって収束していく。若い頃の人生が無数の可能性に分岐していく開いていく樹形図だとすれば、晩年の生涯は死の一点に向かって閉じていく逆むきの樹形図になる。この終わりの部分で主人公が「虞犯罪=将来犯すであろうと予測される罪」で逮捕され、それを受け入れる、というのは象徴的。そこには人生の罪悪感の受容というような、精神分析的な含みもあるんだろうけど。

や、面白かったです。