ゼア・ウィル・ビー・ブラッド

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』を観た。評判に違わぬ傑作でした。

以下ネタバレ含む感想メモ。

石油王の話だ。ダニエル・デイ・ルイス演じるところのダニエル・プレインビュー。彼は、自分のことを石油屋oilmanと呼ぶ。

そういや私が好きなレジデンツの作品にジンジャーブレッドマンというCD-ROM作品がある。一種のミュージックビデオ集なのだけど、その中にThe Dying Oilmanって曲があった。アメリカの石油王が病に冒され、死の床にあって恐怖や後悔をうわごとのようにつぶやく、という曲。いやまあそれだけなんですけど、石油王、大富豪の孤独と狂気と言うのはアメリカの神話の一つなんだろうと思う。

映画の中でプレインビューの子供のH.W.がある事故の後、口を閉じたままムームーとうなり声をあげ続けるシーンがある。そのだいぶ後、プレインビューがやはり口を閉じたまま只うなり声をあげる場面がある。この繰り返しに不思議と心を動かされた。

繰り返しということでは、プレインビューとイーライの対決場面もそうだ。それは形をかえて三度繰り返される。映画の中で、同じ場面が様相を変えながら繰り返される時、単なる出来事の向こうに神話のような生のかたちが見えてくる。

考えてみれば映画というのはそれ自体が単純な繰り返しだ。どんな劇的な展開があっても、フィルムを巻き戻せばまた最初から始まる。
そんな単純な繰り返しになぜ心を動かされるかというと、私たちもまた単純な繰り返しを生きているからだ。私たちは同じような間違いを同じように繰り返す。その間違いも大抵は、父祖の世代の間違いの繰り返しだ。

人が間違いを繰り返す原因は何かといえば、一つの答は、血だ、ということになる。血が繰り返しを強制する。キリストの血はそんな間違いの連鎖=原罪から人を解放する。牧師のイーライはそういうだろう。だがプレインビューは別の意見を持っている。

プレインビューの人間像は最初から最後までゆるがない。この映画のコピーはプレインビューが富と権力を得たとたん怪物と化したような展開をほのめかしているけど、違う。彼は自分が何者であるかを理解している。"弟"のヘンリーに自己を語る場面では、それをはっきり言葉にもしている。

平凡な人間が怪物になって退治されたりされなかったり紆余曲折を語るのがいわゆる映画らしいストーリー、物語だとしたら、この映画にそのような物語はない。華麗な人間模様も入り組んだ展開もない。映画の中では場面は一度も過去に戻らなかったと思う。映画は時系列に沿って着実に進み、カメラはもっぱらプレインビューと世界の関係だけを捉え続ける。
プレインビュー以外の登場人物はまるで彼の影のようだ。そういえば海岸の場面で、プレインビューの"弟"は画面上で影そのもののように映っていた。
そのようにプレインビューという人間だけを執拗に映すうちに、やがて表面のストーリーを越えた、神話的なものがあらわれる。それこそが語られるべき物語なんだと思う。

最初の場面で、プレインビューは独り荒野の中で鶴嘴をふるい、発破をかけている。最後の場面でプレインビューは銃を撃ち、ボーリングのピンを鎚のように打ちおろして、再び独りになる。ここにも繰り返しの環がある。その環の中でプレインビューに救済はない。彼はそれを知っている。救済はない。私も彼に共感する。

なんか書いてて重苦しい調子になってきたけど、ホラーもしくはブラックコメディとしても十分に楽しめる映画でした。何度か、声出して笑ってしまった。

音楽も際立った効果を画面に与えていて、驚きました。レディオヘッドの人がやってたと言うのが、またびっくり。