レンブラントの夜警(ピーター・グリーナウェイ監督)

昔、グリーナウェイ監督の映画が好きだった。観てたのは『英国式庭園殺人事件』から『プロスペローの本』まで。
好きだったのは、この監督が方法論だけのゴリ押しで映画を撮ってしまうところ。才能とかそういうのとは別のところで一本の映画を構築してしまうところがエライと思ってた。まさに構築、構造って感じなんですよね、この人の初期の映画。そういや初期の実験的短編映画集のビデオが部屋のどっかに転がってる筈。
まあともかく『プロスペローの本』以来久しぶりに観ましたグリーナウェイ監督の映画。制作はカナダ・フランス・ドイツ・ポーランド合同。多国籍映画ですな。でも言語は英語で主役は『銀河ヒッチハイク・ガイド』のアーサー・デントの人(マーティン・フリードマン)だ。マーティン・フリードマンはなんかやたらファッキンファッキン言ってました。あと実際にファックもしてました。なんせ主要舞台の一つは天蓋付き・車輪付き移動ベッドだ。レンブラントが絵を描いてる所にこのベッドがごろごろ引かれて登場した時はちょっと笑った。どんな便利ベッドだ。
1642年オランダ、画家レンブラントが代表作『夜警』を描いた際のエピソードを描いた作品。もっとも実際の伝記によるものではなくてグリーナウェイが構築したフィクションですが。
『夜警』の図像の中にはある告発が隠されていたのだという話。その告発の真相ってのは話のスジだけ聞けばまあ普通の(?)スキャンダルなんだけど、同時にそれは近代市民社会の成立とともに生まれ今も続く闇=夜の原型でもある。つまり権力の委譲にまつわる陰謀、偽善の影に隠れた弱者に対する容赦ない搾取と虐待、等々。
画家は金を得る為に作品を作らなければならない。その作品は現実をモデルにしないと制作できない。だけど現実の中には闇が組み込まれていて、その闇を作品の中に描き込めば、彼は裏切者として処刑されるだろう。"本当の事"を言った奴はスキャンダルにまみれて失脚するか、あるいは芸術の冠と引き替えに速やかに忘却される。
つまり現代の映画監督も商業画家レンブラントも同じだよ、と。市民社会に金で雇われながら、彼は市民社会の闇を告発する。それは映画でも絵画でも変わらない。市民社会の側は、作品に刻まれた告発を芸術として称揚する事でそれを忘却・隠蔽しようとする。
絵画と映画の関係は、レンブラントが完成した『夜警』を披露する場面でもっとも直接に表現される。同じ画面でも背景の音を変える事で隠された意味が浮かび上がる、とレンブラントが言うのだけど、これは映画のサウンドトラックの話だよな。同じ場面でレンブラントの絵は絵じゃなくて演劇だ、と評されるのだけど、絵画+演劇=映画とすれば、ある意味レンブラントは映画の先祖のひとりと言うことになりそう。

つーわけでグリーナウェイは現代の映画監督にも連なる近代的芸術家の一つの類型と言うか原型をレンブラントに託して語っていくのだけど、問題はグリーナウェイ自身があんまり芸術家じゃないことだよなぁ。何だろう、批評家というか説明家? その語る所を読み解いていくのは楽しいし、まあそういう"読む"映画だとは思うのだけど。
ハッとうたれるようなすごい細部とかキチガイじみたテンションとかは、あんまりない感じ。
演劇的な演出とか、あるいは登場人物がカメラ目線で観客に向って話しはじめたりとか、そういうことをやっても別に異様な感じがしないのはなんとも。何と言うかもう少し不自然なものが観たいのだけど。
と思ったりもしましたが、画面は総じて美しいし俳優は熱演してます。

最近は映画に局部が出てもあんまり修正しないんだね。レンブラント股間ナチュラルにブラブラしてました。昔の『プロスペローの本』は修正だらけだったんだが…