スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師

(ネタバレ)

映画の物語を追いながら、水平と垂直ってことを考えました。

判事と理髪師の関係は垂直です。一方は街に君臨する判事様。他方の理髪師は、判事によって刑の底に引き落とされた罪人です。
理髪師は復讐を誓います。彼が手に持つ剃刀は水平です。水平に構えられた剃刀が犠牲者ののどをすぅっと横に切り開く。血が流れ落ちる。死体も落ちる。階下のパイ屋の地下室へ。
垂直の関係を水平の剃刀が破壊するってんなら、これはつまり革命です。理髪師は革命を目指す。
でも彼は、新たな垂直関係に閉じ込められてしまう。つまり、パイ屋の女主人との関係です。女主人の店は下、理髪師の店は上。でもって女主人は理髪師を恋い慕っている……下から上を仰ぎ見るように恋い慕っているわけですね。ちょうど判事が理髪師の妻を、そしてその娘を恋したのと同じように。理髪師の妻および娘は判事にとって仰ぎ見るべき天上の存在です。判事は理髪師にとって、自分を突き落とした敵としてやはり、下から仰ぎ見る存在です。そのマナコは恋ではなく復讐に燃えているわけですが。そして理髪師はパイ屋の女主人にとって、愛の対象として仰ぎ見る存在です。そのように、この物語では誰もが下から上をまなざしている。視線が垂直方向に向かうゴシックな構図。
理髪師はその垂直の関係を破壊すべく、水平にただよう世界である海の上から街に帰ってきたはずでした。
しかし理髪師と女主人の関係は、街に新たな垂直の機械を作り上げてしまいます。それは街にやってきたよそ者たちの首を水平に切り開き、ミンチにした挙げ句、街の人々に平等にふるまう機械です。その機械の吐き出す煙の禍々しさに気付いたのは街の最底辺に生きる気違い女だけでした。
理髪師はあまりに才能があり過ぎた。器用すぎた。理髪師が一晩にして椅子を処刑のための機械に改造してしまうシークエンスはいかにもバートンらしい味で楽しいんですけど、この理髪師の技師としてのあまりの有能さが、彼の革命を不可能にしてしまった。垂直の関係を破壊するはずの水平の剃刀の運動が、いつの間にか垂直の関係をより強化するためのものになってしまった。革命が反革命に、反体制が体制に。よくある話です。
やがてカタルシスが訪れます。あまりに精度の高い機構はちょっとしたゴミが入るだけで自壊することがありますが、この物語の場合、歯車に入ったゴミは、理髪師と一緒に港に上陸した若い水夫でした。理髪師の娘への恋にイカれて街をさまよう水平な点の運動、その運動がきっかけとなって垂直に積み上げられた関係の塔は崩壊していきます。そこで明らかになるのは、街の最低の場所にいた人物が最高の場所にいる人物だったと言う事実です。
最後の場面が地下室なのは当然です。そこはこの映画における最も低い場所、人々の肉が落ちてきて、姿をかえて地上に引き上げられていくという循環運動の折り返し地点です。グラウンド・ゼロである地下室に向かって全ての人々は落下していきます……いや、パイ屋の女主人だけは、さらにその下、地獄の業火が燃え盛る場所へ落っこちていくのだけど。
そして理髪師の首は、最後に居残った水平な世界の住人、親を持たず人々の間をさまよい続ける孤児の手によって水平に切り開かれます。
よくできたお話だ!と思いました。すべての展開が腑に落ちてムダがない。その無駄のなさ、ラヴェット夫人の作るミートパイの如し。

しかしまあなんか古典芸能みたいな話ではあります。因果は巡る糸車……。

別の面で言うとこれは欲望を遂げることを禁止された二人の男性の話でもあります。一人めは判事。彼は理髪師の妻を手に入れようとしますが、相手は毒を飲んでしまいます。その後彼はその娘を手に入れようとしますが、娘が成長するのを待ち過ぎたせいかちょっと頭おかしく、というか変態になってます。もう一人は理髪師です。彼に訪れた最初の復讐の機会は偶然から失われますが、その欲求不満が、以降の彼を殺人/精肉機械の完成へ駆り立てます。判事から娘へ向けられる欲望と、理髪師から判事へ向けられる欲望は相似形を描いています。
ホラー・スプラッタ映画で鮮血が吹き出す場面を性的なエクスタシーの隠喩とする見方はありがちだと思うんですが、この映画の血の描き方はまるで精液のようだと思いました。月光が差し込む屋根裏部屋で、夜毎吹き出す罪深い熱い液体。

その血が屋根裏から地下室へ、下水へと降りていくのをカメラが追うのがこの映画のオープニングですが、ちょっと残念だったのは、この部分の映像にCGぽさを感じてしまったこと。そういう部分が本編にもいくらか感じられました。金属質のぎらつきが過剰というか。『チャーリーとチョコレート工場』でもそうだったんだけど、CGの部分に違和感を感じることがある。もちろん彼の映画がCG抜きで撮れるはずがないことはわかってるんですが、でも何か微妙な質感の部分で、バートン特有の統一された世界を壊すことがあるような。

それにしても、もう何度もおなじこと思ったわけが、やっぱり大人になっちまったなあバートン。この映画のゴスにしてポップな仕上がりはまったく素晴らしいと思うのだけど、でもなんというか大人だ。いや大人なんだから大人でいいのだけど。『シザーハンズ』の山の上のお屋敷と郊外の関係とか、『バットマン・リターンズ』の摩天楼の上と下の関係とかは非現実的に壮大で、その距離の中には思春期のゴス少年が夢想する世界が丸ごと入ってたと思うのだけど、『スウィーニー・トッド』の世界の「高さ」はそれに比べればずいぶんと小さい。うっかりするとこの映画に等身大の現実の姿を見てしまいそうになる。つまり緻密でリアルで、つまり成熟ってことかもしれないけれど。

人肉商売を思い付いたスウィーニー・トッドとミセス・ラヴェットがパイ屋の店内でくるくる踊り出す場面がやけに楽しかったです。世間の倫理が転倒する瞬間の楽しさがよく出てたと思う。というか、歌はどれもよかったなあ。とてもよくできたミュージカルだと思います。