携帯小説と「ラップで暮らした我らが先祖」

映画化された「恋空」をきっかけに、携帯小説の評価はいったいどうしたもんかね、という話題があちこちで出てた。

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このへんを眺めつつなんとなく思い出したのは、高橋源一郎日本文学盛衰史』の一つの章「ラップで暮らした我らが先祖」のこと。
この短い章で作者は、「もう誰も読まない明治の小説たち」について書いている。
その一例として挙げられたのが、小杉天外の『魔風恋風』だ。

 ところで、明治中期最大のベストセラー、小杉天外の『魔風恋風』のはじめの方にこんな文章がある。

「鈴の音高く、現れたのはすらりとした肩の滑り、デートン色の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして、白リボン清く、着物は矢絣の風通、袖長けれど風に靡いて、色美しく品高き十八九の令嬢である」

 若く、美しい、最新流行のファッション(自転車)に跨がった女学生が颯爽と登場した瞬間、明治の読者たちは感激のあまり震えたのだ。
 このヒロインの名前は萩原初野、創立十年という名門「帝国女子学院」の生徒で眉目秀麗学力優等、なにもいうことのない可愛いお嬢さんである。この文庫本(岩波文庫に収められている)で上・下二冊、およそ五百頁を超える長編では、明治中期のファッション&流行語が頻出し、初野は殿井という男につきまとわれ、貞操の危機に晒され、東吾という青年と恋愛し、三角関係に悩み、レスビアニズムの女教師の誘惑に遭い、悪意の人間たちが次々現れて、ヒーロー・ヒロインたちを疑心暗鬼に陥らせる。波瀾万丈の一大風俗スペクタクルロマン……のように見える。

(引用は高橋源一郎日本文学盛衰史』より、以下同様)

「波瀾万丈の一大風俗スペクタクルロマン」ですってよ奥さん。面白そう……か?
しかし。

「タカハシくん? きみにいわれて、久しぶりに『魔風恋風』を読み返しているところだが、二十年前もそうだったけど、いったいどこが面白いの? というか、あんなものが流行ったなんて、明治って娯楽がなかったんじゃないのかね。

(中略)

 これはヒロイン、初野のモノローグの典型だが、ねえきみ、こんなに魅力のないヒロイン、寡聞にしてぼくは知らない。いや、まてよ、二十年前、読みふけった『誰からも忘れられた誰も読まない』小説群の中に出てくる人たちは、みんな、初野ちゃんにそっくりだった!」
「魅力がないのはヒロインだけじゃない。この小説の登場人物はどれもこれも、よくいえば典型、悪くいえばステレオタイプ、血の通った人間なんかいやしない」
「それにしても、きみ、『誰からも忘れられた誰も読まない』小説って、みんな似てるような気がするんだが」
「そうその通り。その言葉、その登場人物、みんななにかに似ている。それも、ぼくたちがよく知っているなにかに……」

何に似ているのかというと

 この言葉遣い、この感覚、一週間に一度手紙を送ってくる、今年七十五になるぼくの母親のそれとまったく同じだったのだ!

タカハシさんは自分の母親が繰り返し語ってきかせる「女の一生の物語」と、明治の『誰からも忘れられた誰も読まない』小説の類似に気付いて慄然とする。
それなりに起伏に富んだ生を送り、今は小さなおばあさんになった一人の女性がうんざりするほど繰り返し語る「人生の物語」と、明治のベストセラーでありながらいまや誰からも忘れられた小説が、語り口や内容において、似てしまう、ということ。
それは果てしない反復だ。誰もが知っている物語の反復。

「きみだけじゃないよ」
 電話口で慰めるように旧友はいう。
「日本中のすべてのばあさんたちは昔話が好きなんだ。そして、その話はみんなそっくりさ。ブロップは『昔話の形態学』で昔話をざっと十六だか三十三だか七十四だかのパターンに分類してみせたが、ほんとうに分類されるべきは日本のばあさんたちの昔話さ。もっとも分類する必要なんかないかもしれないが」
「確かに、この世でほんとうにおそろしいのは、家父長制でも封建制でもなく、また環境汚染でも資本主義でもなく、あの反復、あの単純性なんじゃないだろうか」
「いや、きみ。そうじゃない。ほんとうにおそろしいのは、あのばあさんたちの無限の反復を誰も聞いてないことさ!」

(そういえば高橋源一郎の別の長編『ゴジラ』には、「カラオケセットとともに移動し、いく先々でカラオケを歌いまくる、いつまでも死なない三人の老婆」ってのが出てくる)

『誰からも忘れられた誰も読まない』小説たち。それは、今となってはもう、かつて読まれた=読者によって生きられた事があったと信じることができない言葉の群れだ。
それは、母親が繰り返し語る「誰も聞いてない」昔話によく似ている。
今は死んでいる言葉たち、時代を超えては生き延びることのできなかった言葉たち。でもそれらの言葉たちが確かに生きた瞬間もあった筈で…

その小説が生きていたことがあったなんて。いくら読んでも、ぼくにはわからない。もしかしたら、読み方がちがったのかもしれない。彼らはぼくたちとはちがった読み方をしたのかもしれない。ぼくたちとは違った風に。
 たとえば?
 意味ではなく音で? ラップで歌うように?

携帯小説を素人が書き素人が読んでいる事態を評して「文学のカラオケ化」と言ったりする。でもまー考えてみれば、文学(とその時々で呼ばれるような言葉たち)っていつの時代もかなりの部分はカラオケだったんではないかという気もするのよね。よくも悪くも。

つまり携帯小説を書いている女子高生もいずれおばあちゃんになるってことです。大正生まれのおばあちゃんの手紙が『魔風恋風』に似るように、現在の女子高生、将来のおばあちゃんからの携帯メールは『恋空』に似るのです(知らんが)。諸行無常(ひどいオチだ)。