テヅカ・イズ・デッド

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

ようやく読んだ。面白かったです。いろいろ脳を刺激されました。

ところでマンガ論、マンガ批評というと以下の言葉をよく思い出す。岡崎京子の1994年のインタビュー(初出:PEPPER SHOP VOL 13)より。

 マンガは批評がない。批評家がいない。全然。評価されません。使いっぱなし、使われっぱなし。
(中略)
マンガは語られる言葉をまだ持ってないんですよ。写真と一緒だけど。写真雑誌いっぱいあるけど、「アサヒカメラ」とか「デジャ=ヴュ」とか、写真家のための雑誌みたいなのもあるけど、きちんと写真を評論するような雑誌ってないでしょ。伊藤俊治さんとか、高橋周平さんとか、まだ写真のほうがいると思う。マンガは石子順とか「やだよそんなの」って感じだもんねえ。まだっていうか、これから出てくんのかも。まだ全然芽生えもなけりゃなんにもないよね。もう十分健やかに、表皮は産業としては巨大化してってるけどね。そういった意味では十年後に今の状態をみるとき、なんにもないってことになったりするよ。個別の本があるかもしんないけど、結局絶版になったりとかさぁ。記憶の名作みたいな感じでもう一回再版とかされるかもしんないけど。それとの関係ってのは全くないんじゃない。その時の歴史がまた再編するのかもしれないけど、だから私なんか全くいない人として消えたりとか。今は全く評価されてない人が評価されたりするのかもしれないし。
(「文藝別冊 総特集岡崎京子」収録)

岡崎京子は自販機エロ本業界というある種マンガのケモノ道みたいなところを通って出てきた人だけど、自分の描いているマンガの系譜については非常に自覚的だったと思う。彼女のマンガは過剰なまでに過去のマンガや映画を引用・リミックスする。それは80-90年代の時代的な方法論という面もあるけど、そこに現れているのは彼女がそれまで読者・観客として享受してきた作品の記憶の反映だ。彼女のマンガは、それ自体が過去のマンガについてのにぎやかな評論・おしゃべりでもあった。
そのような作品を成立させうるほどこの国のマンガの蓄積は豊かなのに、マンガについて語る批評の言葉がまだない、と岡崎京子は語ったのだった。それが1994年のこと。

で2006年。『テヅカ・イズ・デッド』はマンガのいわば正史となっていた"手塚治虫中心史観"の終わりを告げる。いや別に手塚系統のマンガが終わってしまったわけではないけど、戦後のストーリーマンガは手塚治虫が映画的手法をマンガに持ち込んだときから始まったのです、手塚と映画的手法バンザイ、というだけじゃあ現在のマンガはうまく読めなくなってきてる。"手塚治虫中心史観"をいったん解体しないと前に進めねぇ、視界が開けねえ、というわけでこの本はもっぱら解体作業をしてる感じです。
全体にじっくりくっきりしっかり概念を整理しつつ書きすすめられているので読んでてちょっとめんどくさくなってくるところもあるんだけど、でもこの作業やんないと批評にはなりませんね。既にあった"手塚治虫中心史観"を解体してリセットして新しい構築のための地ならしをするという作業で、きちんとやっておかないとこの後に続く工事で事故が生じる。そういう基礎づくりの作業なのでまあ地味にも見えるけど、「フレームの不確定性」「キャラ/キャラクター」というような概念の提示によって視界を開いていく様子はなかなかすぺくたくるでありました。