『父親たちの星条旗』

この映画での硫黄島は、全体がまるで一つの黒い岩だ。岩の中には地下陣地が築かれ、日本兵が息をひそめている。米兵たちが上陸する場面で、地下陣地の中からその様子をうかがう日本兵の目線のカットが挿入される。しかし日本兵の顔そのものは、ほとんど映し出されない。硫黄島での戦闘において日本兵と米兵の視線はほとんど交わることがない。お互いの顔をのぞきこむのは、どちらかが死体となったときだけだ。
この映画が描く戦場は、その閉塞感、やりきれなさによって際立っている。戦場にはドラマも何もない。ただ運に拾われた兵士たちだけが生き延びる。殺しあいに意味が介入する余地はない。生き延びることに意志が介入する余地もほとんどない。ただ偶然だけが戦場を支配している。そのことを、映画は観客にはっきりと理解させる。
兵士が走っているだけの場面がこんなに悲しく感じられる映画は初めてだ。

(以下ネタばれ含むかも)

硫黄島での戦闘/戦時国債宣伝のためのツアー/戦後の現在における語り手のインタビュー、映画はこれらの三つの時間を織りまぜて語る。このように複雑に時間が交錯する構成はイーストウッドの映画には珍しい(と思う)。脚本家ががんばり過ぎて、いつものイーストウッドの映画の迫力を損なっている、と観客は感じるかもしれない。というか私は最初、そう感じた。
でもそれは杞憂だった。それぞれのエピソードにおいて、イーストウッドの淡々としつつも容赦しない語りの力は健在だ。戦場のシーンが恐ろしいのは既に述べた。それに続く国内の宣伝ツアーのエピソードもまた恐ろしく、やりきれない。
イーストウッドの映画はやはり恐ろしい。関係者がいくらがんばっても恐ろしいものは恐ろしい。

残酷な戦場から"英雄"として帰還した兵士たちが直面するのは、世界そのものの残酷さ、とでもいうべきものだ。
偶然撮られた写真によって"英雄"に仕立て上げられた三人の兵士たちは、自分達がイメージによって徹底的に奪われていることを知る。戦場では、彼等は日本兵と生きた視線を交わすことが禁じられていたが、帰還した本土では、彼等は現実と目を合わせることを禁じられる。
その"現実"は、たとえばパーティー会場に立っている死んだ戦友の母親たちの姿をとって現れる。兵士たちは母親たちに、戦場の現実を伝えることができない。戦場の経験は言葉を超えているし、何よりそれを伝えようとすることは国家によって禁じられてもいる。
それでも一人の兵士は母親の肩を抱いて長いこと泣く。その兵士はやがて、社会から脱落していくことになるのだけど。

偶然が被害者または英雄を選ぶ。そこに正義はない。そのことを認識することで人間は何かを失う。そして、ある人々はその喪失の経験をきっかけにアウトローになっていく。…こう書き出してみると、同じ監督の『許されざる者』や『ミスティック・リバー』にも共通する主題が、この映画にもあるように思われる。
特に正義の不在は印象的だ。
戦争には正義はないが、戦後の平和にも正義はない。父親たちの背中は息子たちの世代に対してただ沈黙している。失ったものについては語りようがないからだ。だからこそ、映画の最後に失われた無垢な記憶がよみがえる瞬間は感動的なものになる。

先に書いたようにこの映画の時間構成はやや複雑なものになっている。また、主要な登場人物に有名俳優がいないので、誰が主要人物か分からなくて最初はちょっと混乱する。そこで乗り損ねるとちょっとツラいかもしれない。
でもこの映画は注意深く観られるべき映画だ。いやまあ、どう観ようと観客の勝手ではありますけれども…最後まで注意を払う価値は確実にある。
そして、観客はどうあれ、イーストウッドは撮られるべき映画を確実に撮っている。考えてみるとこれは恐ろしいことだと思う。