時々、違法

マンガにおけるパクリとか模倣をめぐる言葉
たとえば、岡崎京子の場合。94年。

リバーズ・エッジ」の消防車のシーンはもろ「童夢」のパクリ、っていうかそのまんまなんですよ。アシスタントの子に「コレ描いて」って言って描いてもらったからね。消防車の資料なんかあんまないじゃん。サンプリングって言葉じゃないところで、非常にベースとしての感覚っていうか、ただ単に「あそこ写しといて」みたいな感じは多いからね。
(中略)
最初の人はそうしたんだろうけど、次の世代はそれを写す、それでラクチンっていう気もするしなあ。それは難しいところですねえ。
岡崎京子、「PEPPER SHOPインタヴュー」『文藝別冊・総特集岡崎京子』P65)

ぶっちゃけている。ミニコミ→自販機本→白夜書房というマンガのケモノ道を歩いてきた岡崎京子は“マンガの仕組み”を容赦なく露出させるテロリストでもあった。
80年代の夏目房之介の意見

「右曲がりのダンディー」の画が江口寿史の線やセンスから多大な影響を受けているのは疑いがない。これを“イタダキ”だという人もいるだろう。しかし今や伝説の寡作作家となった江口を知る漫画愛好家ならともかく、知らない人にはどうでもいいことだ。むしろ江口の漫画に飢餓状態におかれている愛好家には「オリジナルが読めないなら亜流でもいいや、けっこうおもしろいもん」と思った人も多かったのではないかと推測する(じつは私がそうだったりして)。
(中略)
 なんか相当いい加減なことを言ってるが、じつのところ私はこの問題に関してわりといい加減なのである。それは私の判断の底に月刊漫画誌時代のイタダキ御免・無法漫画者の血が流れているからである。この本でもすでに<魔球列伝>で無法のイタダキが縦横におこなわれていた時代のことに言及した。おさないが漫画がすきであった私はイタダキに気付いたとしてもそれを楽しんでいたし、よりおもしろくなれば読者としては文句いう筋合いではないのだった。
夏目房之介『消えた魔球』新潮文庫P286,P288)

いいかげんさも含めて漫画の全体を愛そうとする夏目氏。

おそらく夏目氏が上で挙げている「右曲がりのダンディー」の作者について、いしかわじゅんの意見

そういえば、江口寿史の絵をトレスしてたそっくりのあいつは、その後どうしてるのかな。
どこかのパーティで、江口に俺の絵を丸写しにするのはやめろと怒られてたなあ。
江口も、自分で撮った写真をもとに自分で描いた背景を、そっくり写されてたからな。
プライドがないよ。
いしかわじゅんホームページ http://hw001.gate01.com/jun-i/

でも、その江口氏が某写真家の写真を模写(トレス?)してるイラスト見たことあるゾ。許可とってるのかもしれんけど。
まそれはともかく、いしかわ氏の模倣者に関する評価は厳しい。

こういう漫画家は、もちろんクリエイターではない。単なる模倣者、盗作者だ。影響を受けたというケースとは違う。明らかに、盗む意図を持って盗んでいるのだ。人間として最低だと断言しても過言ではないと思う。
では、<模倣>と<影響>とは、どこで見分けるのか。
抽象的なようではあるが、その一番の違いは<志>だろう。志の貧しい漫画には、貧しい匂いがある。その匂いをくんくんと嗅いでみれば、きっとすぐわかる。自ずから正体を現してしまうに違いないのだ。
いしかわじゅん『漫画の時間』新潮OH!文庫P28)

表現者としてのプライド、志の問題。

05年の夏目房之介の意見。80年代のそれとはちょっと、いやだいぶ違う。もっとも、論じている位相も違うのだが。

 それはともかく、パクりあってこその文化の伝播という側面は、たしかにあります。それは著作権や商標権、特許権などの知財法が貫徹しない社会あるいは分野において生じた現象で、それが創造性を活性化した側面も否定できません(そのかわり「フェア」じゃない状況を生んだことも忘れるべきじゃない)。とくにマンガが箸にも棒にもかからない分野だった時代から産業化するまでの過渡期(大体70年代初期まで)には、あきらかにそれは混沌のもつ活性でした。なので日本のマンガ批評は、そうした側面をひじょうに評価する傾向が強いです。そのこと自体は僕もまたそう考えます。
 が、問題は、60年代までの子供マンガ、赤本、貸本などのもっていた「たかが」性は高度に産業化し多様化してゆく70年代以降には生き残れなかった、なぜか、という点です。石子順造らが恨みごとのように呪詛した産業化は、しかし資本主義下の大衆社会で大衆文化が発展する必然だったに過ぎません。それは時代の不可逆な現象だったといっていいと思います。マンガという大衆文化表現はあくまで時代的条件の中にあり、そうである以上経済社会的な必然性に沿っていなければ衰弱するしかないものです。産業化の形態、条件に個別の問題があるとしても、その軌道修正などは大きな必然に沿った形でしか実現していかないはずなんです。
(中略)
 オリジナリティそのものが常に過去の集積の組変えだというのは、たしかにそういう側面があります。表現が人に「オリジナルだ」と思われる要素は時代と表出性の函数のようなものとしてあると僕は思っています。だからオリジナルと「パクり」は矛盾しませんが、逆にいえば著作権法的な制度が貫徹した産業化した分野の中でも機能するはずです。
 ちょっと飛躍して比喩を使いますが、近代社会批判の一つの様態に「昔はよかった」式のものがあり、中世や古代、あるいはもっと昔を「理想的な人間らしい社会」のように見なす場合があります(エコ系によくある気が)。石子らの近代批判は、少し違いますが本質はそれと同じ構造だと思います。
夏目房之介の「で?」/『セイバーキャッツ』と「たかがマンガ」 http://www.ringolab.com/note/natsume2/archives/003516.html

マンガの「いいかげんさ」をおおらかに受け入れた『消えた魔球』とは逆の論調。よく読むと矛盾はしてないのだけど。パクリに対するルーズさ等は後進性の現れって話で、まあ確かにそれはそのとおりです。
80's→05の間に、マンガのあり方もずいぶん変わった。変わりつつある。
マンガの洗練・近代化という面からいうと権利関係が整備されるのは望ましいことだろう。
ただ、移行のありかたがこれでいいのかは疑問だと思う。

たけくまメモ
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