差分に誘われる

芸術じゃない普通のエロ写真というのは匿名的なものだ。同じジャンル内の写真はどれも似ている。誰が撮ったかなんてわからないし、モデルが誰かも、かなりどうでもいい。AVアイドルなんてのもいるけど、彼女たちはお互いによく似ている。
そういうエロ写真の中に至高のor究極の一枚、もうこれ一枚あれば大丈夫という永遠の一枚は存在するかというと、多分存在しない。理由は簡単で、どんなすばらしいエロ写真でも一枚だけだと飽きるから。
といって新奇な趣向をどんどん入れてくればいいかというと、それも違う。欲望の方向というものは定まっている。その方向とまったく違うものを見せられても嬉しくはない。


インターネット時代になって大量のエロ物件を見ることができるようになって、この"どれも似ていてどれも違っている"というのがエロの一つの基本なんじゃないかと考えるようになった。エロい物件は自分の欲望の対象に似てないと惹き付けられない。しかし、まったく同じものを繰り返しみせられても欲望は刺激されない。
必要なのは最高の一枚ではなく、最高の一枚にどこか似ているけど失敗した無数の写真の束だ。


四方田犬彦は"漫画のうちにあって、漫画においてしか成立しえない二つの法則"として次のものらを挙げている。

    • 二度と同じ顔が描かれることはない
    • 同一の顔を際限なく描きつづけることができる

漫画における顔は同じだけど違う。これは上に書いたエロの条件と同じだ。
漫画の読者は、キャラクターの「同じだが違う」無数の顔を見る。それはキャラクターの運動を読むということだ。小刻みに変化する顔を時間軸方向に並べればアニメーションになる。変化し、運動するキャラクターの変化し続ける輪郭にエロスが宿る。
手塚治虫がマンガが本妻でアニメーションは愛人だと言ったことを思い出す。その手塚の『火の鳥』に出てくるムーピーは、彼の求めるエロがもっとも露骨に出たキャラクターの一つだったと思う。ムーピーは決まった形を持たず、望まれた形に連続的に変化する不定形生物だ。


んで先日WIREDで読んだ記事。
http://wiredvision.jp/news/201011/2010113023.html

われわれはなぜ、日曜日にもメールを頻繁にチェックし、Facebookのようなソーシャルサイトを1日に100回もチェックせずにいられないのだろうか? 新しい事実を知ることがなぜ喜びになるのだろうか。脳にとっては、情報もまた報酬刺激、すなわち神経伝達物質[この場合はドーパミン]の放出をもたらす興奮性の刺激の1つだからだ。

それは、われわれの脳のなかで情報が報酬を引き起こす仕組みと関係している。われわれの脳細胞は、「すでに知っている事柄」について、さらなる情報を求めるよう調整されている。要するに、脳細胞は常に、自らの「予測誤差信号」(prediction-error signal)、すなわち予測と実際に生じるものとの差を縮小しようとするのだ。
たとえばサルに、ベルが鳴るたびにジュースを受け取るように訓練させた場合、ドーパミン作動性ニューロンはたちまち、ベルの音は甘い飲み物という報酬を予期させるものであることを学習するだろう。そしてサルは、この特定の報酬刺激について、もっと多くの情報を求めるようになる。例えば、ベルの前に起こること何だろう?という情報だ。ベルを鳴らす前に科学者はスイッチをいじるのだろうか? あるいは科学者は鼻をいじるのだろうか? あるいは単に、部屋に入ってくるのだろうか?
多くの実験から、われわれのドーパミン作動性ニューロン[神経伝達物質としてドーパミンを放出するニューロン]は、報酬そのものに反応するのではなく、報酬を予期させる確かな情報をいち早く見つけようとする性質を持っていることが明らかになっている。[ドーパミンニューロンは、予測していたよりも報酬が大きいときに発火する(すなわち報酬予測誤差信号を担う)ということが諸研究から示唆されている]
だからこそ、われわれは「新しい事実」を強く欲するのだ。われわれがすでに知っている「古い事実」を更新し、われわれの認知モデルを前進させる手段として、「新しい事実」が欲されるのだ。

上の記事によれば私たちの脳は常に情報をもとめている。それも、既に知っている情報をさらに上書きしてくれるような情報を特に求めている。つまり脳は新旧の情報の"差分"に反応する。
マンガやポルノの中にばらまかれた無数の差分が私たちの欲望を駆動するのと、それは似てないだろうか。というか、同じ仕組なんじゃないか。"似ているけど違う無数の情報の集まり"を提示されると、脳はハマりやすいのではないか。
コレクション趣味は、"差分"の追求がそのまま快楽になるわかりやすい例だ。萌え絵がどれも似てるのも、AKB48が48人もいて毎日公演してるのも、同じ理由じゃなかろうか。情報の本質だと思われてる部分ではなく、情報Aと情報A'の瑣末な差分が私たちを中毒性のループに誘いこんでゆく。


こう考えると全ては麻薬化していくなあと思う。ジャンキーにならずに生きるのは難しい。しかし考えたら情報サービスが脳内麻薬を提供する産業になるのはあたりまえの話だ。だから何らかの中毒者になる(既になっている)のは、これはもう仕方がない。自分がジャンキーだという前提の上でのサバイバルを考えるべきなんだろう。


(でも、この手の脳科学"っぽい"記事をもとに理屈を捏ねるのはあまりよくないかもですね)