歩く人

2年前のある日、父の全身に黄疸が出た。
慌てて病院に担ぎこんだが、発見された病気は二度の手術でも根治しきれなかった。
まあこれも老いの形だと家族ぐるみ納得して、あとは穏やかな療養の日々…とはなかなかいかず、入院したり退院したり、緩和ケアに入れた後に自宅療養に戻したり、それなりにドタバタがあった。
それでも、ここ数カ月は自宅での介護体制も整って、それなりに安定した日々だったと思う。


病気による痛みが出なかったのは幸いだったが、父の心身はゆっくりと弱っていった。
四肢に力が入らず完全な寝たきりになり、食べ物が喉を通らなくなった。訪問看護師さんが点滴を毎日交換するようになって、やがて点滴の針を刺す血管を見つけるのが難しくなり、24時間刺しっぱなしになった。
父の身体はいわばエンジンの止まった飛行機で、わずかずつ高度を落としながら滑空し続けているのだった。まだずっと先まで行けるような気もしたし、今すぐにも墜落しそうな気もした。


そうして先月末、ベッドの上の父の身体の向きを変えに行ったとき、私は彼の息が止まっているのを見つけた。


父は歩くのが好きな人だった。若い頃の趣味は登山で、山で鍛えた足でどこへでもすたすたと歩いた。おかげで家族で街に出るとひとりだけ先に行ってしまい、母も私たちも大慌てで彼の背中を追いかける。追いついた母は父と口論を始め、子供たちはうんざりするのだった。


数年前に脳梗塞をやってから父は足が不自由で、私たちが父においていかれることもなくなった。
杖をついてとぼとぼついてくる父を、今度は私たちが待つ番なのだった。
父は寝たきりになってからは半ば鬱状態で、口もきかずずっと目を閉じていた。ある時父は母に、今自分は山を歩いている、頭の中で、とつぶやいたそうだ。


そんな父が不意に私たちを追い越して行ってしまった。
骨壷の入った箱が仏壇の前に置かれている。初七日も過ぎた。
何もかもあっという間で、なんだか不思議な気がする。


仏壇に向かって手を合わせながら、自分は思った以上に唯物論者的かもなと思った。父は今は余計な物をすべて捨てて、白く乾いた骨だけが残っている。たましいがどこかを漂っているという気はしない。


けれども、私がこれから歩くすべての自由な歩行のどこかに彼がいるような気もする。