詩人の顔

夜、テレビつけたら詩人の顔がうつった。
詩人は老人でもあった。老人の眼窩の奥で小さな眼が輝いている。詩人の瞳を持つ老人。


ふすまを隔てた隣の部屋では父が寝ていた。父は詩人より二歳年上だ。ここ数カ月は食事も入らず、ずっと点滴をうけている。


介護ベットに寝た父を縁側から見ると、不謹慎だけどこの絵を思い出す。ちょうど構図が同じなのだ。

もっともこんなに頭が大きくはない。顔も似ているわけではない。


詩人の顔も父の顔とは似てないけど、それとは別に、同じ年代の男の顔としての類似はある。くぼんだ眼窩。まぶたや口元のたるみ。意外につややかな額と頬。
詩を朗読する詩人の顔がアップになった。下唇に水泡らしきものがひとつあった。


その御年まで詩人として生きてこられて、どうですか、ご感想は、とアナウンサーにきかれ、いやぁ、ないですね、と詩人は答えた。
昨年私は父の誕生日に同じ質問をした。どうですか、ここまで生きてきての感想は。父の答えも同じだった。
別に何もありませんなあ、なあああんにも変わらん。はは。


僕はちゃんとした老人になれてないという気がする。昔の老人ってのはほら、火鉢の前に横になってキセルを吸いながら若い者を叱るとか、そういうのがあったじゃないですか。そういう老人にはなれなかった。


とTシャツとジーンズ姿の詩人は言っていた。


(詩人のTシャツにはよくみると『夜のミッキー・マウス』という文字がプリントされていた。『夜のミッキー・マウス』の文はブックオフで買った。ネットの一部じゃ有名なこの詩が収録されていた)


この年になると死ぬのが一番の楽しみになる、いやそういうと語弊があるけど、ぜんぜん違う世界に行くわけじゃない?
と詩人は言う。


ぜんぜん違う世界。こちらの世界。


テレビにうつる詩人の顔に、私は父の目を閉じた顔を重ねあわせた。今では父は一日中目を閉じたきりだ。言葉を発することもほとんどない。一日眠ってるのか、自分の内側に沈潜してるのかはわからない。外の世界を意志的に拒否しようとしているように感じることもある。父からの言葉はないまま、母(と時々は私)は3時間毎に父の身体の向きを変え、点滴とおむつの具合を確認している。


詩人の顔と想像の中で二重写しになった父の顔を見ながら、何かを考えた気がする。
でも言葉になる前に忘れてしまった。