囁き

話し言葉はすぐに消えることが書き言葉との違いだ、程度に以前は思ってたけど、twitter使う内にちょっと違う考えを持つようになった。もともとネットの言葉は書き言葉なのに話し言葉っぽいなあと思ってたんだけど、twitterはその面がより強まった感じ。そしてその"話し言葉っぽさ"の特徴は、"すぐに消えること"、だけではない気がする。
話し言葉、webの声は、"話しかけてくる"声だ。それは必ずしも私に話しかけてくるんじゃなくて、大部分は誰かが別の誰かに向けて話しかけているのだけど。いやまあ誰でもない虚空にむかって話しかけている人もいるけど。
いずれにせよwebの声は、何かしらを指している小さな矢印のようなものに感じられる。小さな短い矢印が、乱流のように空間を満たしている。
そして自分に向けられた声に触れたら、自分も声を返す。呼び掛けと応答の絶え間ない連続。
本の中の書かれた言葉は、読まれるのを待っている。そこには言葉によって組み上げられた構造がある。主が訪れるのを待っている建物のような感じ。鳴らされる前の楽器のような感じだ。
それに対して話し言葉、"声"は、呼びかける言葉だ。小さな応答可能性の泡が空間を満たす。


昨日私は半ばパブリックな空間じゃないと自分は考えることもできないと書いた。
"声"の中でないと考えることが出来ないという感覚がある。呼びかける声に応じてさらに呼びかけるように言葉を発していくことが私にとっての考えることだ。


しかし…

「おれは娘が生まれた時のことをよく覚えている。それから、娘が少しずつ育っていったのを。妻は二分に一回は娘に名前で呼びかけていた。シャワーみたいなものだ。二分に一回、一時間に三十回、十八時間起きてるとして、一日に五百四十回、一年で……わからん。それって暴力じゃないのかね」
「ある意味では」
「それだけ耳もとで囁かれたら、誰だって自分がその名前の持主であるような気がしてくる。そしたら、次は『おっぱい』だよ。わかるな。一日に五百四十回、唇に乳首を含ませながら、『はい、おっぱい』というだろ。すると、それが『おっぱい』であるような気がしてくる。以下同様」
「いいじゃないか。そうやって、人間は言葉を覚えていくんだから」
「いや、よくない。そのやり方には根本的な欠陥がある」
「なに?」
「ずっと耳元で囁き続けられてるから、考える暇がない」
「いつまでも囁かれ続けてるわけじゃないだろ」
「いや死ぬまで囁かれ続けるのさ」
高橋源一郎『宿題』(『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』所収)

しかし、今朝トイレで読んだ上の小説で、私の心にふっと落ちてきたのは
"ずっと耳元で囁き続けられてるから、考える暇がない"
という一行だった。
これも、わかる。そういう囁きも確かにあって耳元で聞こえている(気がする)。


空間に満ちる無数の声は、私が考えることを可能にしてるのか、さまたげているのか。


そもそも私は何かものを考えているのか?私の考えを形作る言葉はどこからくるのだろう。