小説、音

我妻さんの『今日の砂漠』より
私はなぜ小説が書けないのか、その一
私はなぜ小説が書けないのか、その二、その三
その三が特に面白かった。

つまり「私」と「言葉」と「エピソード」のつくる三角形のようなものとして「小説」を考えるなら、私には「私」と「エピソード」をつなぐ辺が欠けている。私の「私」は「言葉」にしか直接アクセスできないし、「言葉」が「エピソード」と関係していくとき、今度はそこから「私」が離脱してしまう。三者で仲良くすることができないので、「言葉」と「私」が親密なときは「エピソード」が排除されるし、「言葉」が「エピソード」へ近づくと「私」が除け者にされる。


"私"、"言葉"、"エピソード"の三要素を、"演奏者"、"音色"、"メロディ"に置き換えると、フリーミュージックの演奏者も同じジレンマがありそうな気がする。詩=瞬間=即興と、小説=持続=メロディの対立。
まあでも私は小説を書かないし演奏もしないから的外れかもしれない。
小説と音の比喩ではtwitterでこないだちょっと印象に残ったことがあった。
ある作家が、小説を書く上で大事なこととして、その小説の「Aの音」=基準音に書きながら耳をかたむける事、小説の言葉をその音にそってチューニングするように書くと語っていた。それと同じ時間帯に別の作家が、ある種の小説は絶対音感のようなものが必要で、それを欠いているとまったく読めないのだ、と語っていた。
前者は書く側の話、後者は読む側の話で、どちらも音を比喩として語っているのがちょっと面白かった。小説の中では、ことばの音声的側面とはまた違った意味で、音が鳴っている。その音を聴くことが必要だ。