ジョギング こことよそ

夜、久しぶりにジョギングに出かけた。ひところは一日おきくらいに走ってたのだけど、最近はすっかりさぼり癖がついてしまった。家の近くを、せいぜい40分ほどだらだら走るだけなのだけど。
古い傷だらけのiPodで音楽を適当に聴きながら走る。
イヤフォンで音楽を聴きながら走っていると、妙な気持ちになることがある。「音が鳴っている時間・場所」の感覚が異様にリアルに感じられる。しかし自分が今夜の道を走っていることも確かなので、自分の入る場所が二重になったような感覚に襲われる。自分が分裂して二つの場所を同時に走っているような感じ。
今走っているココはドコだ?
そこにいない人の声や物音がリアルに聴こえるというのは、その不自然さを意識してしまうと、とても気持ち悪く感じられる。録音された生の音というのは基本的に幽霊の声と同じだ。潜在的な死者の声。死者の声なのに生々しい。最初に録音された声を聴いた人は相当な恐怖を憶えたのではないかと思う。
怖くて気持ち悪いんだけど、自分がそういう二重の風景の中にいるのを意識するのはとても面白いことでもある。めまいをおぼえる。そんな眼を回したような状態で、夜、走る、というのは、考えると危険ではある。
走りながら矢野顕子の『ピヤノアキコ。』を聴いた。矢野顕子が『在広東少年』を弾き、歌う。

おまえはほほえむ
わたしにむかってほほえむ
目が見えないわたしに

ふくらんだ指の中に 電話のベルが鳴り
ふくらんだ指の中に ジェット機が墜ちる

言葉が像になって眼の裏ではじける。走ってる「ここ」と、矢野顕子がピアノを弾きうたう「そこ」の上にさらに言葉の中にあるもう一つの場所が重なる。重なった風景がモザイク状に砕けて広東にいる少年の像の内側に落下する。
『在広東少年』の"在"という字について考えた。この一文字が広東と少年を存在させている。"在る"は強い動詞だ。在る、という動詞が、在る、という状態を現出させるのは、自明だけど凄いことだ。
走っている自分も、ピアノを弾きながらうたってる矢野顕子も、うたの中の広東の少年も、別々のレベルだけど"在"という文字で一緒に束ねられるようなやり方で、在る。現在も過去も虚構も同じように在る、というのは途方もないはなしだけど自分はそう信じている。
そんなふうな事を考えながら、夜の中をふらふらと走る。