『シンセミア』

シンセミア〈1〉 (朝日文庫)

シンセミア〈1〉 (朝日文庫)

ようやく『シンセミア』を読んだ。出たのもう4年前か。出てすぐ読みたかったんだけど忘れてた。文庫になってたのを近所の図書館で見かけて借りました。

地方都市の抱える歴史の闇。政治のボスとヤクザ、いわくありげな場所、街の気違い予言者、変態的な性、UFOや霊の噂…なんだか半村良の作品思い出した。現代日本文学の旗手の作品を読んでて半村良を思い出すとは思わなかった。半村良って亡くなって何年か経つけど今も読まれているのかしら。ある地方を完結した一つの世界、あるいは宇宙の雛形として描くというのは大江健三郎とか中上健次とかがやったことなわけだが、考えてみたら半村良もエンターテイメントでやってたんだよな。半村良が語る地方=世界の物語の中には政治とヤクザとエロと暴力とオカルトがあるわけだけど、"エロとオカルト"を"性と神話"と言い換えれば純文学ぽくなる。

しかしこの小説は、映画だなあ。想像力を一旦映像に変換して、それを言葉に再変換したような書き方だ。映像を媒介にして書かれてるような小説。これは通常の"文学"とはずいぶん違う。言葉は想像上の映像との間に常に一定の距離を保っている。古めかしい漢語がしばしば使われるのだけど、それもこの描かれる対象との距離の印象を強める。言葉が言葉として直接迫ってくる部分はほとんどないように思える。

例外的に登場人物が怒ったり暴力を振るっているときの台詞はその距離を越えて迫ってくるものがあった。それは、ある種の映画における血まみれの暴力場面が、馬鹿馬鹿しい中にも時にいわくいいがたい切実な情感を漲らせるのと似ている。過剰な怒りと暴力は映像の全面的な支配を乗り越える。

"非文学的"な書き方を選択することで、この小説は込み入った構造を持つ世界を描くことを、ともかくもやり遂げているという気がする。終盤のクライマックスの荒唐無稽とか、いわゆる文学じゃーちょっとまじめに書けねえよという感じですが、この書き方で積み上げられた流れの中だと受け入れてしまう。読者は全ての事柄を見せられるままに見てしまう。

見ること、映像への欲望はこの小説の直接的なテーマの一つにもなっている。ひたすら見ることを欲望し、欲望しているそのツラを見られることだけは決して客観的に意識しない連中のツラは浅ましい。でもこんにちテレビを見てネットを徘徊する人ならみなどっかでこの種の浅ましいツラを育んでいるはずだ。この小説が描く盗撮サークルは、そのへんの浅ましさの構造を描いてなかなかいいなあと思いました。