スキャナー・ダークリー

原作はP.K.ディックの名作。SFというより、SFの手法で変形された主流小説としてディック随一の傑作だと思う。

それにしてもこの映画の映像は不思議だ。実写の映像をもとにしたロトスコープによるアニメ。同じ監督の『ウェイキング・ライフ』もこの手法で撮ったらしいですが、なんでこんな手法で映画を撮ろうとしたのか。

いや別に技法として失敗しているわけではないです。この映画の映像は、時にポップなイラストレーションに、時には実写そのままに見える。イラストから実写に継ぎ目なく移行するその感覚は、今まで経験したことがない。

前に見た『パプリカ』の物語は夢と現実の境界の崩壊を描いていたけど、『パプリカ』でのキャラクター造形は現実描写の段階で既に夢のようにディフォルメされてた。ある者はドアをくぐれないほどの巨漢で、ある者は大人なのに子供のように小さい。現実が既に夢じみている。そんな現実の向こう側に描かれる夢は、夢のまた夢だ。かくして『パプリカ』の映像は、二つの夢の間で合わせ鏡のように増殖していく。

スキャナー・ダークリー』では、アニメーションは目立ったディフォルメ抜きに現実の画面をトレースする。絵の下には実際に撮影された風景や演技している役者の肉体がある。あくまでベースは実写だ。質感をトレースによって均一にならされた画面は、現実と妄想の世界をなだらかに移行する。そこには『パプリカ』とはまた違う夢への傾斜があるように感じた。

まあそういう異化効果は明らかだけど…それにしても、そもそもなんでこんな技法を思い付いたのかね、とやはり不思議に思う。だって普通考えないでしょ、こんなの。明らかに実験映画なのだけど。しかし実験映画にキアヌ・リーブスウィノナ・ライダーが出てるというのも不思議な感じ。

ただしスクランブル・スーツについては、この技法だからこそできた映像化だろう。そういう意味では必然的な選択か。また、画面全体をフィルター処理したような質感は、"おぼろなスキャナー"という原題にとても良くあっている。映像による監視がこの映画のテーマの一つだけど、この映画の観客は、自分達が何か薄いフィルタを通して登場人物たちの現実を監視しているような気分になる。

今われらは鏡をもて見る如く見るところおぼろなり
新約聖書「コリント人への第一の手紙」第13章)

"本当の現実"と私たちの間に邪悪な"偽の現実"が割り込んでいる、という観念にディックはとり憑かれていた。この映画の映像は、それ自体が偽の現実のようなものとして、観客の前に現れる。

シナリオは原作に忠実で、エピソードをうまくまとめていた。作り手の原作へのなみなみならぬ愛が伺えます。特にキアヌ・リーブスが予想以上にはまり役なのには驚いた。すごいねキアヌ。100点あげよう。ロバート・ダウニーJr.のファニーで邪悪な同居人役もよかった。

原作のワインと薬で自殺しようとする男の挿話が私はなぜか好きなのだけど、ちゃんと映像化されていてうれしかった。この部分はグロテスクなユーモアと皮肉が効いていて、短いながら良い出来。