よみぢから

http://d.hatena.ne.jp/nogamin/20061221/1166647732
http://d.hatena.ne.jp/nogamin/20061224/1166922702
を読んで、少女漫画の話じゃないけどふと思ったこと。
以前、『コミ通』ってサイトがいくつかのマンガ読み系のblogでちょっと話題になった。『失踪日記』についてなんだかえらく薄いレビューを晒してるってことで、”マンガを読めない人っているんだねぇ(タメイキ)”という反応が多かったように思う。私も問題のレビューはまあナニだなと思った。
ただ、「ある種の作品が読めない人」自体は別に珍しくない。で、それを簡単に切っちゃっていいのかってのはちょっと悩んでしまうところだ。実際、自分だって「読めない」作品はたくさんあるわけだし。

読める人が読めない人に面白さを説明してあげればいい…とはいうものの、説明は説明で、別の技能が必要になる。「このマンガはどこが面白いかというと」と語って相手に面白さを分かってもらうのは、難しい。というか、厳密に考えるとほとんど不可能に近い。読んだものの面白さというのは、最終的には読んだ人が自分で見つけなければならないからだ。「ロバを泉に連れていくことはできても水を飲ませることはできない」だっけ。そんな感じ。まあ、基本的にはみんな好きな泉で好きなように飲めばいいとは思うけど。
でも、「こっちの水はすごくうまかった」ということを教えたくなることはある。それをどう伝えるかと言うのはほんとに悩ましい。既に分かってる同士で「うまいよ」「うまいね」とうなずきあうのは楽だし、とりあえずは楽しいのだけど、でもやっぱり物足りない。そもそもそれは、何かが伝わっていると言えるのか。

別にマンガでなくてもこの種の話はある。
蓮實重彦の映画評論ってのがある。一般に回りくどくて難解でわけわからんとされる。でも私は、別に蓮實ファンというわけでもないんだけど、ある時期この人のいくつかの映画評論で、映画の見方が変わった。私が読んだいくつかの氏の評論は確かに、私を新しい井戸に連れていって、新しい水の味を教えてくれる文章だった。
しかし蓮實重彦の映画評論には一般的に、マニア好みの難解文というイメージが張り付いている。確かに果てしなくめんどくさい文体ですけど。「別に平易に書けばいいじゃん」と言われそうだけど、平易に書くと言うのは、読者が事前に想定する理解によりそって書くことになりかねない。それでは目的の真逆になってしまうだろう。それを避けるためにあえて選んだ文体だと思うのだあれは。
しかし、その内輪での安易な理解に落ちつくことを避けようとする文章が内輪受けするスタイルとみなされるのはなんというか、その、どうすればいいんですかね? わからん。
内輪で共有された知識は確かにメッセージの伝達をスムーズにする。でも、本当に面白いのは共通理解なんてないところで事故のように伝えられるメッセージだ。

なんだか話が大げさになった。
まあともかく、知らないものを知ると言うのは、面白いけどめんどくさいことだ。そして映画とかマンガのようなわかりやすいものへ向かう視線の裏側には、この"知らない=わからない=めんどくさい"部分がぴったり張り付いている。この「わかりやすさの裏側にあるわかりにくさ」ほどわかりにくいものはめったにない。と思う。
そこにわざわざ他人の視線を導くのはめんどくさいの二乗で超めんどくさい。
「でもやるんだよ」といえるだけの対象への愛があるのか。そこが問われる…まあ、blogや日常のおしゃべりでいちいちそこまで動機を深く掘り下げることもありませんが。
でもたまには自問したい。