『ワット』

ワット

ワット

先に読んだ『マーフィ』もそうだけど、なんだかどこ読んでも妙に楽しいなあ。なんでだ。
Javascript書く時にはJavascriptコンソールを表示しながらWebPage読み込むんだけど、不具合があるとコンソールにエラーメッセージが並ぶ。場合によっては何十行もエラーが続いて止まらなくなることがある。エラーメッセージはプログラムでつまづいた箇所を示してくれるけど、不具合の原因そのものは指摘してくれない。
『ワット』の延々と続く言葉の列はそういうエラーメッセージを思わせるところがある。や、エラーメッセージの方は別に読んでて楽しくないけどね。むしろ不快。でもPCの性能が上がれば読んで面白いエラーメッセージを出すようになるかも。そしてエラーメッセージを読みたいがためにプログラムを書く人もでるかも。…人間が上位の存在に(そんなものがあるとして)、同じように楽しまれていたらイヤだなとふと思った。
ワットは夜更けに駅に現れ、電車に乗ってノット氏の家に赴く。しばらくの間ノット氏に仕えて過ごした後、再び駅まで来てそこで姿を消す。その成り行きが執拗な順列組み合わせ、言葉遊び、脱線のための脱線、過剰のための過剰によって記述される。言葉はたくさん、でも描かれる状況は徹底的に貧しい。ワットは無感動で、未来や過去についてほとんど考えることがない。いわばワットは"ばか"だ。
昔、自分が恐いことについて考えていて、痴呆になることと徐々に貧しくなることはつくづく恐いなあと思ったことがある。二つとも自覚なしに状態が推移していくからだ。その果てに死がある。自分の死は確実に訪れるけど、確実に認識できない。ところで私たちが読んでいる小説と言うものの多くは既に死んだ人によって書かれている。また、そのかなりの部分が、貧しかったり(何らかの意味で)ばかだったりした人によって書かれている。紙に書かれた言葉で、実用的な目的を持つもの以外は、全部エラーメッセージみたいなものかもしれないです。
なんだか曖昧な話になってしまった。『ワット』で気に入ったのは、おかしい中にものがなしさがあるところです。物悲しいっていい言葉だな。物がかなしい。