mixiでの無断リンク禁止とか

とか。
無断リンク禁止を強固に主張している人をみてて思ったんだけど、彼女が想定している味方はどこにいるんだろう。一連の主張を読むと、彼女はある種の義憤にかられて、仲間の被害者にかわって訴える気持ちで書いているように見えるけど、その"仲間"がどこにいるかが見えにくい。
今は「無断リンク禁止」でGoogle検索しても、無断リンク禁止がいかに無駄であるかを啓蒙するページばかりが引っ掛かる*1
mixiだったら案外そういうひとたちもいるかも、と思って「無断リンク禁止」でコミュ検索してみた。
http://mixi.jp/search_community.pl?sort=date&submit=main&keyword=%CC%B5%C3%C7%A5%EA%A5%F3%A5%AF%B6%D8%BB%DF&category_id=0
既に消えているコミュを除くと14件がヒット。一件がリンクの自由を論じるコミュ、一件が逆にリンクは報告制にしてほしいという人たち。おお、ここに集まっているのか!と思ったが2人しかいなかった。残りはイケメンアイドルのファンコミュが6件、その他のコミュが5件、トップに「無断リンク禁止」をうたっていた。
mixiのコミュは簡単に公開レベルの設定ができるので、「無断リンク禁止」をうたうよりメンバー以外閲覧禁止にしてしまったほうがいいと思うのだが、そこらへんは何か思うところがあるのかも。あまり閉鎖的な雰囲気にしたくない、でも知らないところで言及もされたくない、とか。もっとも、mixi全体がWebの中では囲い込まれた場所ではあるのだけれど。
まあmixiのコミュの全体の数からすると、14件というのはほとんど問題にならない数ではありますね。

想像だけど、無断リンク禁止というのはリンクという行為にまつわる無気味さに反応しているのではないかと思う。
リンクには三種類の関係者がいる。リンク先の文書の作者、リンク元の文書の作者、そしてリンク先からリンク元へと飛んでくる読者。
リンク先の文書の作者から見ると、リンク元の文書についてはリファラを通して近付くことができる。そこには少なくとも、リンク元の相手の人間に近付く最初の手がかりがある。
でも読者には近付けない。IPは分かっても、リンク元・リンク先の文書が見知らぬ読者の頭の中でどんな化学反応を起こしているのかは、まったく見えない。実際のところ恐いのは、無断リンクする人ではなく、そのリンクをたどってくる顔の見えない読者だ。
Web以前から、読者の頭の中で起こってることなんて本来わからなかった。いずれ全ての文書は読者の頭の中ではいろんな文脈で勝手に解釈されて、いわばハイパーテキスト化する。だからリンクがあろうとなかろうと同じことだとは思う。ただ、リンクという仕組みは、そういう「読者の無気味さ」を明確化した。
リンクされることの恐さは、本来は「読まれること」がもともと持つ恐さ、読者の頭の中で起こっていることへの恐怖ではないか、なんてことを考える。
だからこそあえてアクセス制限ではなく「無断リンク禁止」なのだろう。「無断リンク禁止」は、読者をすべて知り合いの知り合いという範疇に納めてしまおうとする。それは、読者の手ではなく心情をコントロールしようとするおまじないだ。<読者は作者の"仲間"として共感的に読んでほしい>という願いがこめられたおまじない。
これはmixiのようなSNSに人が集まる理由のひとつでもある。先の検索結果に見るように、現状ではmixi内部でも無断リンクはほとんど問題にされていないが、mixi自体が"仲間"の連鎖によって囲われた場所であることを考えると当然かもしれない。
しかしまあ、mixiも巨大化の末に"仲間"によるコントロールは外れてしまった。先日の、P2Pmixiの合わせ技で生じた写真の流出事件はまったく気の毒な話だと思うけど、あの事件の被害者はそれこそ「無断リンク禁止」と叫びたかったんじゃないか。

不特定の読者に勝手に読まれることを恐れる、というのはWebには適していない心性だとは思う。でも、それから自由になることは難しい。というか自由になる必要もない。問題はリスクとメリットをどう調整するか、そしてその結果できた新しい状況に自分をどう馴らすか。

恐怖に対して適切に反応するのは難しい。それが恐怖のいちばん恐いところ。

*1:その後「リンクはトップページに」で検索したらけっこうそれらしきサイトが引っ掛かった。ある種の同人系サイトで残ってる言葉みたい。文化圏がちがうものは見えにくいなあとつくづく思う