エレベーターのドアの前で感じる恐怖とか

私が住んでいるマンションの部屋にはエレベーターで上がる。このエレベーターに夜乗るのが、ちょっと怖い。いつもというわけではないけど、ときどき恐くなることがある。
エレベーターのドアが開くまでの時間が、怖い。


引越してきた当初は別に怖くはなかった。私はせっかちなので、ついエレベーターのドアのすぐ前に立って開くのを待ってしまう。だからドアの向こうに誰かがいると、開くなり顔を合わせてお互い驚く事になる。
昼間はちょっと驚くだけで済むけれど、夜は恐い。人気のない時刻、薄黄色い照明の元で他人といきなり至近距離で出会うと本当に仰天する。相手も驚くので相乗効果だ。のけぞる。声が出る。心臓に悪い。
何回かそれを繰りかえして、エレベーターのドアから意識的に離れて立つことをやっとおぼえた。ドアから離れた場所にいれば、ドアが開いてそこに他人が立っていても、別に怖くはない。あたりまえですね、はい。
だけどしばらくそうしていると、恐怖の記憶も薄らいでくる。やがてすっかり恐怖を忘れた私は、また自然にドアの前に立つようになる。
そして他人の驚く顔と出会ってびっくりして…以下繰り返し。

別に、ドアの向こうに何か怪物がいると思っているわけではない。いくらなんでもそれくらいはわかっている。怪し気な住人も見かけるマンションだけど、怪物は住んでない。と思う。
ただドアが開いて見知らぬ何かが目の前に現れた瞬間、反射的に怪物かも!と思うのを止められない。まあ怪物だかサイコキラーだか逃亡中の殺人犯だか知らないけど、著しく危険な何かだ。いきなり腕を掴むと刃を伸ばしたカッターナイフを突き出してくるような、そんな"何か"の幻を見て、私はびくりと身構える。

やがて私は、自分が"ドアの前で恐怖する記憶"を恐怖していることに気付いた。
私は、ドアの向こうの"怪物"が怖いのではない。そんなものがいないことは知っている。ただ、自分の中にいつのまにか焼き付いてしまった"恐怖のイメージ"が怖いのだ。
目の前の現実のドアの奥にもう1つ幻のドアがあって、そのドアの向こうには怪物がいる。いつの間にか私の中に、そんな不合理なイメージが焼き付いてしまった。
現実のドアは恐くない。でも、それとよく似たもうひとつのドアが恐ろしい。そんなドアはないけど、でも確かにある。そのもうひとつのドアの向こうには怪物がいる。

id:zoot32さんがカフカの『掟の門』について書かれた文章を読んでいて、自分のこのエレベーターのドアに対する感情のことをふと思いだした。

『掟の門』で農民が門を通らないのは、ひとえに門番が話を語って聞かせたためだ。門が閉じているわけではない。通行を力づくで阻まれているわけでもない。
ただ門番の語る話の中にある"門の向こうの門"のイメージが、農民の足を止めた。
門番の言う事は、実はただの嘘かもしれない。それを確かめるには門を通らなければならないけど…逆に言えば、確かめるにはただ門を通ればいいだけの話だ。
しかし、農民は門番の話を聞いてしまった。足を止めてしまった。それだけでもう、彼はそこから動けなくなる。

なんだか、私のエレベーターのドアに感じる恐怖と似ているような気がした。実体としての門(ドア)に、一つの幻が付与される。その幻は、一つのメッセージを農民(私)に届けるだろう。

問題は、何故この門番の話がこんなにもたやすく農民の足を止めてしまうかだ。
門番は、単純に「この門を通るとひどいめにあうよ」と警告して農民を止めたのではなかった。「通るなら通ってもいい。でもこの門の向こうにはもっと大きな門と厳しい門番が待っている。その向こうにはさらに…」ということを言ったのだった。
つまり農民が立っている門は、果てしなく続く繰り返しの始まりだ。それを知らされて、農民は動けなくなった。

この門の繰り返しの構造は、ゼノンのパラドックスを思わせる。
矢が的に届くには、まず的と矢の間の中間点を通過しなければならない。その中間点に矢が届くためには、中間点と矢の中間点を通過しなければならない。そのためには…以下繰り返し。こうして、矢は想像のプロセスの中ではいつまで経っても的には届かないどころか、出発点から動くことすらできない。

もちろん現実にはそんなことはない。放たれた矢は的に届く。
でもいったんこのパラドックスにとりつかれると、現実の方が間違っているような気がしてくる。それくらいこのパラドックスは魅惑的で、ある真実を伝えているように感じられる。

目的地と農民との間には門がある。この門と目的地の間には、もう一つの門がある。その第二の門と目的地の間には、さらに新しい門がある。
道を進むにつれて事態は厳しくなるという門番の警告は、きっと正しい。たとえ門番の罰を受けなくても、農民は数多くの門をくぐるうちに、やがては死んでしまうだろう。門は無限に続くが、農民の命は有限なのだ。旅の苛烈さは次第に明らかになっていくだろう。それが目的地にたどり着けずに終わることも、やがて明らかになるだろう。結局それは、罰を受けたのと同じことだ。
農民の旅の不可能性は既に明らかになっている。彼が目的地を目指す限り、そこにはたどり着けない。

私がエレベーターのドアの前で感じる恐怖も、少し種類は違うけれど、繰り返しが関わっている。
私は自分が"怪物"に出会わないことを知っている。だからドアの前に立つ。するとドアが開き、見知らぬ他人の顔が目の前に現れて、驚く。一瞬"怪物"の幻を見る。そこでドアから離れて立つようになる。‥しかし、私は徐々に恐怖を忘れる。何より、私は"怪物"が本当はいないことを知っている。そうして再び、私はドアの前に立つことになる。その繰り返し。

何回開くドアの前に立っても、私が"怪物"に出会うことはないだろう。農民がどれだけ門を抜けても目的地にはたどり着けないのと同様に。
"怪物"なんていない・出会うことはないとわかっていても、私が恐怖から自由になることはない。というのも、その恐怖から自由になったと思いはじめると、私はついつい、ドアの前に立ってしまうからだ。繰り返しのはじまりにまた立ってしまう。

私にできるのは、せいぜいドアからいくらか離れて立つことを忘れないようにすることくらいだ。それでも、忘れる時は忘れてしまう。忘れないようにしようと思ったことも忘れてしまう。忘れるってのはそういうことだ。

ドアから離れて立つようにすること。それは掟の門の前で農民が門番の機嫌を取り、賄賂を送って手なずけようとしたのにちょっと似ている。
どちらもその場限りのごまかしだ。恐怖/掟の構図にいったん嵌り込んでしまえば、そこから抜け出すことはできない。せいぜい小さなごまかしを工夫することくらいしかできない。

『掟の門』の農夫はいつか門の前で死ぬことになるだろう(実際そうなった)。農民は門番から何かの罰を受けたわけではないけど、結局は同じことだ。彼は罰の前で死んだ。
そしてエレベーターのドアの向こうにいる怪物は、私がいなくなるその日まで、私を待ち続けている。私がエレベーターに乗ろうと乗るまいと、そのことは変わらない。怪物はドアの向こうで私を待っているだろう。

エレベーターのドアの前で感じる恐怖は、つまりは私が抱いている他者に対する恐怖なのだろうと思う。

他人というものは、わからない。何を考えているのかわからないし、そもそも自分と同じ人間なのかどうかもわからない。日頃見かける隣人も、私の知らないところでは外側を脱ぎすて、なんだかわからない中身が、なんだかわからないことをしてるのかもしれない。
いや別にそういう宇宙人に取り囲まれているような妄想を抱いているわけじゃないですよ。対人恐怖症と言うわけでもないし。でも他人というものは、そういうところがある。
他人にどんなに近付こうとしても、本当の、芯のところにはたどり着けない。ゼノンのパラドックスが到達を妨げる。

それでも、無限の彼方にいる他者から私のところに届けられるメッセージはある。そのひとつが恐怖であり、脅威だ。私の罪を探している罰がある、ということだ。