『カンバセイション・ピース』読み中

 十九世紀のシェリングもまた神についての哲学者だが、ハイデガーシェリングの哲学を存在についての哲学と言い、神とは存在の擬人化のことであり、擬人化とは幼稚な思考法などではなくて、人間存在それ自身の広がりや奥行きによるもので、私たちはまだ人間自身の可能性を知り尽くしているわけではないというようなことを言っているのだけれど、人間の思考というのは言われてみれば確かに物事を人間から完全に切り離して、最初から最後まで人間と別物として考えることはできなくて、どこかで人間に似せてしまったり、人間に対して使うのと同じ言葉を使ってしまったりする。
 何が言いたいのかと言うと、つまり奈緒子姉が見た風呂場の影は、奈緒子姉とこの家という建物を媒介させるための擬人化された何かだったのではないかということで、それは見間違いとかドッペルゲンガーというような奈緒子姉の側に一方的に還元して済むようなものではなくて、そうかと言って幽霊とか地縛霊というような人間が引き起こす何かというものでもなくて、この家の側の何かだったというようなことが私の予想なのだが、<家>というものの広がりと<擬人化>という概念の意味するところがまだあまりに獏としていて、結びつけ方の見当がつかないために私は黙っているだけだった。

何かで似たような思索を見た事がある。
あ、内田善美のマンガだ。『星の時計のLiddell』や『草迷宮・草空間』にあった思索ととても良く似ている。あのマンガもほとんど同じ事を考えていた気がする。
内田善美、復刊せんかなぁ。復刊しないのは作者の意志らしいが。