読書と映像

小説と映像について
小説を読むとき、その映像を思い浮かべることができるか? - WINDBIRD
面白いと思った。

速読の観点から。
『映像を思い浮かべる』技術って、『速読』の技術だよね - うぱ日記
涼宮ハルヒの憂鬱で読書速度が上がる - うぱ日記
私も急いで情報を得なきゃいけないときは似たような感じで本を流し読みするので、これもよくわかる気がする。

ただ私は「映像をイメージする」ことが、実はあまりうまくできない。その辺の脳機能が発達してない気がする。高校まで油絵とか描いてたけどあまり上手くならなかったのと、それは関係あるのかもしれない。手を紙の上に動かせばなんとかイメージを生み出すことはできるのだけど、それは手と目と画材でイメージをその度に新しく構成しているわけで、脳内イメージを取り出すのとはほど遠い。極端な話、真円とか正三角形のような単純な図形でさえ、映像としてイメージはできない(記号としてはイメージできるけれど、幾何学的な図形としては脳内で固定できない)。

最近P.K.ディックの『暗闇のスキャナー』がキアヌ・リーヴス主演で映画化されてて、トレイラーを観たんだけど、スクランブルスーツの描写に軽くショックを受けた。確かにあれは原作どおりの描写ではある。原作どおりではあるんだけど…
原作を読んだ時に私はスクランブルスーツの奇妙さに心を惹かれた。スクランブルスーツは麻薬捜査官がおとり捜査のために着込むハイテク着ぐるみで、表面に"150万におよぶ断片化された人相"を投影するというものだ。その組み合わせは目まぐるしくかわるので、誰もこのスーツを着た人間の特徴を捉えることはできず、着た者には完全な匿名性が保証される。いわば社会的な光学迷彩とでもいおうか。
私は原作を読んでこのスーツを想像し(映像にはできなくても想像or妄想はするのだ、もちろん)、そのありえなさに困惑した。人間を流動する群衆のコラージュにかえてしまうスーツ。それは『不思議の国のアリス』のチェシャ猫のような、"想像されることを拒むナンセンス"に思えた。そしてこのナンセンスは『暗闇のスキャナー』に奇妙に面白い隙間を作り出しているようにも思えた。
でも映画ではそれがあっさり映像化されてた。そうか、こういうものだったか。いや、もともと映像的なガジェットではあるのだけど…まあ、チェシャ猫も挿絵やアニメであっさり映像化されたわけだしなあ。
イメージ化できてしまったとたん、ちょっとつまらなくなった気もするのです。よくあることではあるが。

そしてこんどは、とてもゆっくり消えていきました。しっぽの先からはじめて、最後はニヤニヤわらい。ニヤニヤわらいは、ねこのほかのところが消えてからも、しばらくのこっていました。
 アリスは思いました。「あらま! ニヤニヤわらいなしのねこならよく見かけるけれど、でもねこなしのニヤニヤわらいとはね! 生まれて見た中で、一番へんてこなしろものだわ!」


(『不思議の国のアリス山形浩生訳)

映像と小説ということでふと思い出したある小説の一節。

 まあ、見解の相違ってことは、お互いにあるけど、どっちみち、あんただって金はねえんだろ? そんなら、グズグズ言ってないでさあ、どこかで飯を喰おうよ、とアレクサンドルは言い、まだ少し時間が早いかなあ、と言いながら座ブトンを二つに折って頭を載せ、横になったまま、かたわらで眠っいるタマの肢を前後に長く伸し、猫ってものはさあ、やーらかいって感じがしない? と、したり顔とも嬉しそうともつかない、どことなくずるそうな笑い方をして言った。
 やーらか、だよ。ちょっと何か書くものかしてよ。
 アレクサンドルは、渡してやったメモ用紙とボールペンで、金クギ流の平仮名で横書きにやーらかと書き、こうだよ、と満足そうに言った。やの上に突き出てる棒二つが耳なんだよ、やが顔で、やは前肢、音びきの棒が猫の胴体で、らはちょっと曲げている後肢の右、かかは尻と後肢の左でかはもちろん、オッポ。


(『タマや』金井美恵子

文字の中に猫の姿が現れる。
この猫の映像は、速読のために文章を"変換"して得られる映像の、たぶん対極にある。文章に含まれた情報を総合して出てくる"まとめ"としての映像を積分的とすれば、こういうのは微分的とでもいうんだろうか。書かれた文字そのものからにじみ出てくる映像。
"わかる"ための映像じゃなくて、積極的にわからなくなるための映像というか。
私は小説を読む時、何が書いてあるかわかりたいと思うけど、同時にわかりたくないとも思う。小説の中で、私は私だけの経験をしたい。そのためには、他の人と同じようなことを"わかって"しまうのはむしろ邪魔だ。いやそれは言い過ぎか…ともかく私は、小説を支配する総合的なイメージを壊す細部を、小説の中に探そうとする。
自分だけの"猫"を探しに、言葉の群れの中に降りていく。私にとって小説を読むというのはそーゆーことのような気がする。

タマや (河出文庫)

タマや (河出文庫)