夢の記述

夢のストーリーは目覚めて思い出す時に生まれる、と何かで読んだ覚えがある。本当なのかどうかは知らない。想起の際にストーリーができるのだと考えれば、たとえば夢の中の救急車のサイレンが目覚まし時計の音になって目が覚める、というような現象は説明しやすい。
思い出された夢は、寝てる間に脳がリアルタイムで"経験"した出来事とはおそらく違う。そして思い出された夢を言葉にすると、夢のイメージはさらにもう一段変形されるように思う。書かれた夢を読み返すと、見た夢とは微妙に違う何かが書かれているように感じる。
夢を記述する時、私は夢を捏造しているような気分になる。実際、書きやすいように変形している部分はある。夢は細部に富んでいるが、その細部は必ずしも滑らかにつながってはいない。多くの矛盾と断絶を抱え込んだ夢の対象物は言葉のコンテナにうまく入らない。だから、適当に細部をとばし、うまく記述できない部分は記述できるように変形する。器にあわせて、中身の凸凹を削ったり埋めたりするのだ。
もちろん、現実について書く時にもほとんど同じ難しさはある。対象のすべてをぴったり写し取る言葉というものはない。現実について書く言葉は、常に不完全で曖昧な証言になる。常に複数ある証言の一つを私は書く。ほかの人はほかの言葉を書く。それぞれの記述は矛盾するだろう。それはそれでいい。現実とはそういうものだ。
でも私の夢については私だけしか知らない。私は自分の見た夢の唯一の証言者だ。それなのに私は捏造を交えずに夢について記述することができない。そして書いたものを読み返して"これはちょっと違う"と思ってしまう。責任を果たせないような後味の悪さがある。
記録しようとしたものは、ストーリーになり、言葉になることで幾重にも変形されてしまう。変形される前のものは、変形されたイメージによって上書きされ、忘れられる。まあそんな感じで私は私の見た夢をただしく記述できない。それは"私"を記述できないということでもあるんだろう。考えても詮無いことだけど、考えると気持ちが悪くなってくる。