無断リンク禁止をめぐる議論
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/rir6/20050710/1120937549
を起点にモヒカン族関連の記事をいくつか読んだ。
モヒカン族の全貌(?)はまだ把握してないんだけど、とりあえず思った事などメモ。多分いろいろ勘違いしている。

Webpageに表現した“私”を見て、と訴えるメンヘルの人に対して、“私”なんかじゃなくてHTMLのソースを見てしまうのがモヒカン族か。Webが技術+妄想で出来てるとしたら、メンヘルのひとは妄想を、モヒカン族は技術をとる。妄想と技術を平和に、でも抑圧的に統合しようとするのがムラ社会メンヘル=“私”原理主義モヒカン族=技術原理主義ムラ社会=共同体、あるいは“世間”原理主義
メンヘルの人とモヒカン族の人は噛み合ってないけど対立もしていない、ねじれの位置にあるように見える。だから上のリンクでの論議は、別にメンヘルvs.モヒカン族の問題ではないな。メンヘルの代弁者を僭称するムラ社会の人が、その仮想敵として同じムラ社会の人をモヒカン族に見立ててるって図だ。
ただ実際のところ、ムラ社会が我々の唯一の現実ではないかとも思う。我々は皆多少はムラ人なわけで。ムラにいながらムラ社会を批判する必要があるからこそ、モヒカン族は(あるいはメンヘラーにおける過剰な“私”も?)蜃気楼のように峠にあらわれたのだ。いや、知らんが。
で、このムラには(a)戦いに惹かれているムラ人(彼等がモヒカン族を幻視する)と(b-1)平和が好きなムラ人と(b-2)苦悩するのが好きなムラ人がいて、上のリンクのrir6さんは(b-2)のような気がする。芸としてはキライではないです。苦悩芸。

別の話。
よく言われることだがネットでの議論の勝ち負けはROMが決める。で、その場合論点より自分を守ろうとしていることが周囲に見透かされて自爆、というパターンが多い。“要するにあいつは自分を守りたいだけのお子ちゃまだな”と思われたらその瞬間に負けだ。このパターンの負けを回避する戦略としてモヒカン宣言http://mohican.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%83%a2%e3%83%92%e3%82%ab%e3%83%b3%e5%ae%a3%e8%a8%80)は理にかなっている。モヒカン宣言では議論から“自分”は可能な限り排除されている。自分を守らず、共有の知識を守るという態度をとればみっともない負けは回避できる。
もっとも、この戦略自体が徹底した自己防衛のソレに見えてしまうこともある。まことにオノレの幻影を捨てる事は難しい。
その点でモヒカン族の長がタイラー・ダーデンだってのはナルホド、という感じであります。