小島信夫『残光』を読んだ

残光

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普通私たちは自分の意識が身体をあやつってるのだと思う。だから、たとえば手を上に上げるとき、まず手を上に上げようという意識が脳内に生まれて、これが腕の筋肉に指令して手を上げさせるのだと考える。でも厳密に調べると実はそうではないのだという。多くの場合、腕を上げるという信号が先に生じ、意識は遅れてそれをフォローしているのだという。心身の関係では必ずしも心が身体に先立つわけではない。無意識の動作だけではなく、いわゆる意識的な動作においてもそうなのだ。意識の現在は、”私の現在”を遅れて、後から確認する。
うろ覚えで書いたので以上はたぶん正確ではないと思うけど、そのようなことを何かで読んだ。

小島信夫の『残光』読んでる間気になったのは、これを書いている書き手の現在はどこにあるのかということで。

…いや、ちょっと待て、この動作と意識の話ってこないだ読んだ保坂和志の本で読んだんだっけな? 小島信夫を読んでみようと思ったのも保坂和志の本がきっかけなんだけど、保坂和志小島信夫について書いたのをなぞるように小島信夫を読んでしまったのだとしたらなんだか恥ずかしいな。いや、別に恥ずかしがることはないのか。どうだろう。わからん。

…しかしどうも、本を読んだはしから忘れるてる気がするなあ自分。

大江健三郎が子供の頃、村の図書室にある本をあらかた読んでしまった。母親にそういうと、母親は大江少年をつれて図書室に行き、適当な本のページを示してそこに何が書いてあったのか言えるかと問うた。大江はわからない、忘れてしまった、と答える。
「あなたは何のために本を読んでいるのか、忘れるためか」
そう母親に言われて、それから大江は本を読む時にノートをつくるようになった、とかなんとか。
という話を思い出す。

しかし、本を読んで忘れないと言うのは、凡人の場合ある年齢以上になると難しいことである。少なくとも私はそうだ。

まあそれはともかく。

小島信夫の『残光』読んでる間気になったのは、これを書いている書き手の現在はどこにあるのかということで。
だってこれ、わからなくなるんですよ。読んでると、何度も見失う。

小島信夫という90歳になる作家がいる。山崎勉という英文学者の友人がいる。作家は老いて目も弱っているので、山崎氏の助けを借りてさまざまな本を読み、原稿を書く。作家は娘夫婦と暮らしている。認知症を病んでいる妻が施設に預けられている。保坂和志という作家が小島信夫のファンで、彼を読んで青山ブックセンタートークイベントをするという。

弱った目で苦労しながら原稿用紙に字を書いている老作家の現在がある。それから、文の中で回想されている現在がある。いや回想だから過去なのだけど、"思い出そうとしている"という動詞の時制は現在で、読んでいるとこれもまたひとつの現在だという気がしてくる。
そしてややこしいことに、老作家はかつて自分の書いた小説を読み返し、思い出し、批評する。
そしてさらにややこしいことに、その小説というのが、自分が過去の書いた小説の内容について、モデルとなった人物が手紙を書いてくるというような、あるいは実在する人物が進行中の小説について発言するのが、そのまま小説の中に組み込まれていくような作品である、らしい。

まあ、ややこしい構造の実験小説というのはむかしからある。そういうのはややこしいけれどがんばれば腑分けできるかな、とも思えるけれど‥
本文を見直すと、いや、やっぱり駄目だ。これは整理できない。勝てん。

 以上、長々としゃべって『寓話』のことをいってみようとしていたのだ、ということに、気がつきました。申しわけない。
「それで、こうした満座のお客さんの前でおききしますが、決して逃げ出さないで下さい」
「まあ、あのことですか」
「たぶん、そうだと思う」
 ここでボクの眼はいよいよカスンできて紙に書いてあることは分かっているが、さっきから、書いている字が読めない。しばらくベッドで横になって眼を休めることにする。今ボクは、トークの会場にいるのか、トークは一月も二月も三月も前のことで、二、三日前にあのときのCDを届けてくれた。
「エーと、『寓話』というのは、トビキリ、スゴイ」
 といったあと、たしか「燕京大学部隊」のことをしゃべっていた。アレは「エンケイ大学」ではなくて「エンキョウ大学」ということになっている。現在は「北京大学」である。
 とにかくしばらくお待ち下さい。ちょっと一休みしますから。今は、全く見えない。部屋も、世の中も全く見えない。「山崎さん、そこにいるかい? ボクが倒れたら一一〇番をたのみます!」
 眼をさまして眼の方はあいかわらずだが、いくらか元気になった。(…)

これはどちらかというと分かりやすい部分。作家が原稿を書いている今、というのが一番手前にある。で、作家は青山ブックセンターでのトークイベントのことを書いている。

「それで、こうした満座のお客さんの前でおききしますが、決して逃げ出さないで下さい」
「まあ、あのことですか」
「たぶん、そうだと思う」

「エーと、『寓話』というのは、トビキリ、スゴイ」

トークイベントでの言葉のはず。
しかし書いている途中で作家は疲労の極に達した。そこで読者に一休みさせてくれという。と同時に、原稿を書くのを助けてくれている山崎氏に呼びかける。「山崎さん、そこにいるかい? ボクが倒れたら一一〇番をたのみます!」

…引用していて気付いたんですけどね、ここで書かれている作家の"原稿を書いている現在"は、必ずしも本当の現在(ってのもへんな言葉だけど)ではないですね。部屋が見えないくらい目がかすんでるなら、山崎氏に呼びかけの言葉を書く余裕もなかろう。というわけで、この部分は90歳の老人がいわば読者サービスとして意識的にボケているともいえそうだが、しかし、90歳のボケって、それは果たして…いや。

 『(…)百枚を長いと思ったらその長さのことなんか忘れろ、ぼくなんかも同じだよ。今の一行だよ。きみが小説を書けば、病気は忘れるよ。今月末に検査の結果をききに行くだろう。ぼくの予想では、
 「先生、ぼくはダメですか?」
 「そんなこというもんじゃない。誰が決めた。決めるのはボクだよ。きみは小説を書いているそうじゃないか。できたかね。(…中略…)」
 「先生、無事ぼくは卒業ですか」
 「もう来なくていい」
 「成績はどうですか」
 「まあまあだよ」
 これは小島の想像だよ。きみは勝手に想像してもいい。何をしてもいい。それを書けばいい。きみの場合、いろんなことが許される。というのは、外でもない。きみには諧謔があるからだ。きみが気がつかなくてもある‥‥』
 小島先生はそんなこといっていたんでしょう」
 と山本夫人はいったと思う。
 と小島信夫は法政大学院研究棟の七階でいった。
 それから私は二つの受賞作のうちの第二の作品「長良川」に移ることにした。
 それから途中、横道へ外れてしまったが、あの大庭さんの話をしなくてはならない。

この部分ではまず、小島信夫が"法政大学院研究棟の七階"で、「小島信夫文学賞」受賞作の二つの作品について語っている、という”現在"がある。山本夫人というのは、受賞作の作者の妻だ。山本夫人が「かつて小島先生が、体の具合を気にするあなたにこういうようなことを言ったでしょう」という内容のことを山本氏にいったんじゃないか、ということを小島信夫は語る。『』は夫人が語る小島信夫の言葉、『』の中の「」は、"小島信夫が想像した、医者と山本氏との対話"になる。
ところが、もう一つの受賞作「長良川」について語りはじめようとしたところで、”大庭さんの話"が突然割り込んでくる。作家が書きながらふと”大庭さんの話"を書かねばならないと思い出したからだ。だから、ここで引用の最後で割り込んでくる部分は、"法政大学院研究棟の七階"の現在ではない。書き手が原稿用紙に字を書いている現在だ。
これでもわかりやすい部分なんです。後半、自分の過去の小説を読み返していくところはもう、"現在"がいつ・どこにあるのか本格的にわからなくなってくる。

初めて読んだ小島信夫作品がこの本だったのはちょっと間違ってたかもなあと思ったのは、小島信夫の過去の小説がこの本で作者自身によって読み直されるからで、おそらくそれらの作品を読んでいれば、もうすこし読者として視界もクリアだったのではないかと思われる。
でも、読んでる間、どんどん道に迷っていくような感覚は面白かった。知らない標識、知らない地名ばかりの街に迷い込んでいくような…

作家に負けないようにここでふと思い出したことを書くけど、今年はiPodポッドキャスティングをよく聴いた。ポッドキャスティングは商業放送のプロがやってる番組も多いけど個人でやってる番組もたくさんあって、ただ夜道を歩きながら一人語りをデジタルレコーダーに吹き込んでいるような番組もある。
そんな番組を、もっぱら自転車に乗りながら聴いていた。
昼過ぎに、高校のグラウンドと公園の間の道を自転車で走りながら、耳の中では夜の田舎道を歩いている人の声が続く。耳の中の声はふとだまりこむ。近くで鳴いているカエルの声が聞こえた(これはポッドキャスティング)、それから風の音の向こうに、サッカーの練習をしている高校生の足音が聞こえた(これは自転車でその横を通り過ぎつつある高校のグラウンドから)。
重ねあわされる二つの"今"。いや、ポッドキャスティングの中でも話者とカエルの"今"は違うだろうし、自転車に乗って走る私の"今"とグラウンドの高校生の"今"も違う。全部が頭の中でただ響きあっている。頭の中ががらんどうになって、音だけが反響しているような気がする。
そういう瞬間がしばしばあった。

『残光』から受けた印象はなんだかこの感じにつながる気がする。


『残光』のあとがきには

『残光』は昨年の正月から七月半ば頃までを「現在」の立場で書いてる。その「現在」のなかには、妻のことも、総合雑誌の写真撮影のことも、小島信夫文学賞にかかわる小説の話なども含まれている。じっさいに書き始めたのは「トーク」が終わってからで十一月半ばに渡した。『残光』の原稿はY・Tさん、「新潮」の阿部正孝さん、出版部の須貝利恵子さんに任せた。

とある。ああ、作家は書かれている言葉の「現在」にとても自覚的なんだと思った。
ここに出てくるY・Tさんというのは山崎勉氏で、『残光』も終わり近くの179ページで突然

 ここで私はしばしばその名前を出してきた山崎勉さん(これからY・Tと呼ぶことにする。Y・T本人がそう申し出てきた。以前から気になっていたので、彼のいう通りにします)が、(…)

という括弧書きによってイニシャルになってしまう。人名のイニシャル表記と実名表記が混在するのはこの作家の作品にはよくあるらしいが、いったいなんだろうね、と思って読んでたら

(…)この女性編集者を、天野敬子さんだとあかすことにしたうえのことであるが、この天野さん(A・Kと読んでもいい。実名だからといって油断してもらっては困る)とひょっとすると、作者本人が、小説の中にも、外にもあっていうかもしれない。A・K(としても所詮同じであるが)が、二、三年前に作者のところにハガキをくれて(…)

"実名だからといって油断してもらっては困る"って。そうか実名に油断しちゃいかんのか、うん、と思って読み進めると"(としても所詮同じであるが)"ですって。何なのだ一体。
しかし確かに、言われてみれば実名の前で人は油断する気がする。そんなことは考えたことがなかった。