『生きる歓び』保坂和志

生きる歓び

生きる歓び

を借りて読んだ。
ちょっと前に選択肢で分岐していく文書を表示する為の自作のHTML+Javascriptのセットと言うのを紹介したけど、もっと昔、リンクで分岐していく物語を書く為のCGIを作った事がある。アップグレードする為にひっこめて以来そのままなのだけど。
そのCGIの仕組みは簡単で、要するにメモの下にどんどんリンクを追加できるというものだった。ある場面を書いて、次の場面の選択肢のリンクを書いて、その選択肢先の場面を新たなメモに書く。
しかしこのCGIで一連のシーンを書き継いでいくと、当然ながら先に進むほどめんどくさくなるのだった。選択肢の数だけ物語の枝が増えていくわけで。

ネットワークビジネスの解説図みたいですな。
左から右に物語内の時間が流れるとして、時間が経過するに従って場面の数は増えていく。だから書けば書くほどうっとおしくなっていくのであった。
逆に物語が多様な状態から一点に収束していくタイプの物語があってもいいと思うが、これは読む方があまり面白く無いんじゃないかなと思う。書き方によるだろうけど。
んでこういう構造にしたらまあガマンして書けるんじゃ無いかと思ったんだが

たとえば四つの庭園があるとして、その庭園をどんな順序で廻ってもいいというような場合こんな構造になる。ABCDと巡ってもいいしCBDAでもCCDDでも構わない。読む方は多様なコースがとれるし、書く方も少なくとも書き進むにつれて苦しくなるよーなことはない。
でも、この構造だと各場面(図の中の赤丸)はお互いに影響を及ぼしてはならない。Aという場所で何が起きたとしても、次の場所に入った時には忘れていなければならない。でないと、他のコースを辿ってきた人との間に矛盾が生じてしまう。
つまりこの構造は場面と場面の間に因果関係=時間が、ない。時間は各ポイントの中で完結していなければならない。
私見ではこれはポルノグラフィに向いた構造だと思う。ポルノは始まりも終わりも無い、快楽が順列組み合せで羅列される世界を志向するので。(いや今のエロゲーとかは違うのかもしれんが、知らん。そもそもRPGとかノベルゲーがどういうことになってるのか全然知らない。ここではものすごく単純素朴な事を書いています)

んで保坂和志の『生きる歓び』ですけど、これは病気の子猫を拾った話『生きる歓び』と、亡くなった小説家の田中小実昌さんについて綴った『小実昌さんのこと』の二篇から成る。

読みながらなんとなく頭に浮かんだ図はこんな感じで

この小説は事実起こった事がそのままに書いてある、というか少なくともそのまま書こうとしている。だから図にすると分岐の無い一つながりの線なのだけど、その周囲に可能性としての別の線がいくつも浮かぶ。ありえたかもしれない別の現在、ありえたかもしれない別の記述。それは単に本の内容だけの話では無く、読む側の状況だって別の可能性があるし、あったはず。

同じようなことはライブの演奏を聴いている時にも考えるし、感じる。ここでしか鳴らない音・ここでしか聴けない音を聴きながら、耳は“ありえたかもしれない別の演奏”とのズレを常に聴き取っている。
で『生きる歓び』の書き方はライブみたいだ、と書こうかと思ったんだけど、考えたらそれもおかしな話で、紙に書かれた言葉はライブからは最も遠いものだ。だって時間が経っても消えないし変わらない。固定されている。録音テープにすら似ていない。
保坂和志の文章はいわゆる勢いのある文章では無い。うだうだと考えたり思い直したりしてるその回り道の思考を拾い上げるような文章。ただ、思考の曲がりくねりはランダムに見えて慎重に選ばれているという印象を受ける。
書かれた言葉は動かない。けど、作者と読者の「今」を引き付けるように言葉が選ばれている、という気がする。