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石田衣良自身には興味ないのだけど)Wikipediaの石田衣良の項目に書かれた発言がうそっこだったって話。そのウソ発言の内容なんだけど、関西人や田舎者に対する差別的言辞で、これを面白がってblogに転載してる人も結構いる。2chでは当然予想されたように関西人を韓国人に改変したヴァージョンも目撃。こういうの見るとヘイトスピーチ自体にある種の普遍的な力があるんだよなあと思う。そういや私は福岡在住だけど福岡って土地もも2chニュー速あたりではなかなかひどい書かれようで、福岡はDQNの巣窟だとか日本じゃないとか絶対住みたくないとか転勤命じられたら死ぬとかですわ。まあ地方叩きは”ネタとして”(出た)面白いわけで、タモリも名古屋叩きやってたし。でもってどんなカテゴリにも差別は生じるし付帯するヘイトスピーチも生まれるわけだが、問題はヘイトスピーチには妙な魅力と伝染性があるってこと。ヘイトスピーチにはエモーションと論理性が同居してる、ように見える。愛と論理の組み合わせはなかなかうまくいかないのに、憎悪と論理(正確には論理もどき、だけど)の組み合わせはたいていの場合うまくいってる、かのように見える。愛に理由はいらないけど憎悪にはいつだって確固たる理由と原因・証拠があるってこと、なのか? つうかほんとは「あるように見える」だけだと思いますがね。憎悪は現象が明確だから論理も明確に見える。それに比べると愛はまあ、なんだか常に漠然としてて不安なわけですよ。だがしかーし、それらは見かけの問題に過ぎない。と言いたいねオレは。愛のために言うねオレは。うそ。そういや石田衣良が炎上する原因になった件のコラムも、いわゆる隣人愛で単純な論理を越えようとしてうまくいかなかった例なのだった。やっぱり愛と論理の相性は悪いのか? でもああいう無理筋の展開でも力技でうまく収めるような書き方は多分あるわけで、今回のケースはやはりレトリックが失敗だったってことでしょう。そのへん書き手の失敗と言えばそうなんだが、あれでぱっと燃え上がる筋がやや独特というのも否めない。で、石田衣良がどーゆー人かとはほぼ無関係にみんな(私も含めて)差別的言辞が好きで、誰か有名人がそういうことを言ってるんだったら積極的にネタにしたいと思っているんだなーと思った。「ネタにしたい」ってのは「差別したい」というのとは違うけど、似たような感じだ。「ヒドイ事を言いたい」欲望と「ヒドイ事をいってる人を見たい」欲望は違うけど似ている。こともある。あ、話がバラけてきた。えーとこの文の出発点は何かと言うと、「件の捏造ネタを作った人のメンタリティと、ネタに釣られてた人々のメンタリティはなんとなく似てるように見える」ということです。「痛い」とか「ひどい」というタグにひきつけられる人はチューイせよってことです。自戒をこめて退却〜(って書くと最近は叩かれるのか)(それは別件だ)