『カンバセイション・ピース』読みおえてた

カンバセイション・ピース

カンバセイション・ピース

あんまり「読み終えた!」という感じはしないけど。
建築の分野で「住い方調査」というのがありまして、家族の生活史の中で家の使い方がどのように変化したか、家がどのように変化したか…なんてことを調査します。子供が成長して勉強部屋を与えられて、やがて子供が家を出るとその部屋は物置きになって、それからちょっと改装して老人の居室になって…みたいな変化を記録していくわけです。こういう地道な調査の集積が、公営住宅の間取りに反映されて、ひいては日本の住宅のありかたに大きな影響を与えた時代もありました。
学生の時そういう調査に触れたんですが、個別の生活史を拾い上げていく作業は面白いものだけど、そこから共通の構造を取り出す作業は面白くなかった、まあ分析の中で意外な構造が見えてきたらそれは面白いんだろうけど、なかなかそういうことは起こらないわけで。
…と感じたのは私の頭が悪かったからだな、と今になって思いますが…いや私が建築ダメだったという話はいいのだ。
カンバセイション・ピース』に出てくる場所は主に二つで、主な舞台は"私"が暮らす日本家屋、もう一つは横浜球場です。
日本家屋の場面はすごく詳細に描写されています。
これはある意味「住い方調査」の極端な例だと思いました。家というモノと"私"の記憶、意識との関係が細かく記録されてる。建築系の調査だったらメジャーで寸法を測るところを、"私"は作家だから言葉で書き記していきます。その記録は、MP3レコーダーを常に口もとにおいて口述してるような細かさです。
尾辻克彦が『自宅の蠢き』という短編でやはり自宅と自分との関わりを書いていて、尾辻克彦だから「モノ」としての家の描き方は素晴らしく実感があって面白いんですが、『カンバセイション・ピース』の家の描写は尾辻克彦ほどフェティッシュではなくて、意識や記憶の側に寄ってます。尾辻克彦が「モノ」の側から小説を描き起こすとすれば、保坂和志は意識・言葉の側から描き起こしている。尾辻克彦は自宅に雨樋をつけたり棚を吊ったりするんだけど、『カンバセイション・ピース』の"私"は家というモノに対してアクションは起こしません。同居人たちと話したり、庭に水をまいたりしながら、子供の頃庭の木に登ったことを思い出したり、従姉妹が風呂場で見たという幽霊?のことを考えたりしてる。この幽霊?をめぐる考察はとても面白い。
この小説の"私"は何かにつけいろいろと考察するんですけど、タイトルの"カンバセイション・ピース"の意味については触れてくれません。仕方なく自分で調べると、ヴィスコンティの映画『家族の肖像』の英語タイトルがConversation Pieceですね。
私は『家族の肖像』については藤原カムイが昔ムーミンのキャラで描いたパロディマンガでしか知らないけどーーってどういう知り方だ、それは。
映画『家族の肖像』に出てくる老教授がコレクションしている18世紀の"家族団欒"をテーマにした絵画をConversation Pieceと呼ぶそうで。
で、この小説もひとつの『家族の肖像』と言えなくもない。ある家があって、そこに集まる人たちがいて、その人たちが交わす会話や動作が家の中に染み込んでいく。家の族と書いて家族。で、家が、そんな家族の肖像になってる。
ただ、この小説には家族は出てくるけど親子関係は出てこない。親子関係のかわりに、おじ・おばー甥・姪の関係が出てくる。もともとこの小説の舞台になる家は"私"の叔父の家だ。そして"私"と妻の理恵の間に子供はいないけど、離れには姪のゆかりが同居している。
親ー子の関係に比べると、叔父・叔母ー甥・姪の関係はなんかちょっと芯がズれているというか、隙間が多い感じがしますね。その隙間・ズレに入りこむ空気がちょっと面白い。面白いと言うか、小説的だ。親子関係はガチの物語だけど、叔父・叔母ー甥・姪関係は小説的。という気がする。
このへん、まえに紹介した金井美恵子の『タマや』という小説を思い出したりもします。『タマや』は家族からはぐれた子供たちが集う小説で…
しかしこう言う風にほかの作品へ連想を続けているとキリがないな。まあこの小説自体、"私"がいろいろ考えたり連想したりすることで続いていくお話なので…
読んでるこっちもいろいろと考えたり連想したり中案したり…
で、いつの間にか最後のページを読んでたという、そんな感じで。