文末

http://d.hatena.ne.jp/ggippss/20060508/p1
http://d.hatena.ne.jp/ggippss/20060509/p1
自分用メモ。
感じ方としては

  • 「だ・である」文体は自分一人で構築してる感じ。「内面」というスペースで作業している感じ。
  • 「よ・ね」または「です・ます」文体は読者または架空の相方がいて、それに報告してる感じ。

確か尾辻克彦がこのことについて書いてた。内容忘れたけど。「だ・である」で書いてたけどうまくいかないので「です・ます」に切り替えたらなんだか知らないけど書けた、とかそういう話だった。
尾辻克彦の小説でいうと(文体とは直接関係ないんだけど)、父と娘というペアが語りを持続させるための仕掛けになってるところがあって…というのは作家自身がどこかで語ってた。
基本的には漫才と同じ仕組みだ。たぶん。
「です・ます」あるいは「よ・ね」文体は書簡体小説に近いんじゃないかという気がする。つまりウソの他人を必要とする言葉。
でも実は「内面」の方がフィクション度は高いのではないか。だから時に「だ・である」の方がウソっぽく感じるのではないか。
高橋源一郎が昔、女子高生の語りで語った方が自由にかける気がすると書いてたのも思い出す。
ウソの他者を経由することでウソの内面を迂回する(あれ、どこに着くんだ、その場合)。
あ、でも中原昌也は「だ・である」文体で、にもかかわらず「内面」も「構築」も否定しているような文体だな。迂回ではなく破壊するための「だ・である」文体。

そういえばジャンプのデスノートがそろそろ最終回らしいdeathな。
読んでませんけど。