シームレス

だらだらと。

はてブからあちこちURLをめぐってると、自分の文章を書く時間がなくなる。
さらにまずいことに、はてブやblogにおけるトラックバックの表示がかなり効率的に意見と意見を結び付けるようになったため、私の考えるべきことを既に誰かが書いている、ということをたやすく見つけられるようになってしまった。

昔からそうじゃないかとは思ってたんだ。私だけが発見した宝なんてめったにないってこと。まあもちろん、めったにないから宝なんだが。

私は、いつの間にか、考えることよりも他人の意見を読むことを、書くことよりも他人の意見から意見へわたり歩くことを優先するようになりつつある。
なにせ、すべてがシームレスだ。切れ目なくつながっている。
はてブで注目のトピックを見る。面白そうなリンクをクリック。ふむふむと読んだ後にブックマークレットを使ってはてブのコメントを表示させ、読む。ウインドウの下に並んだはてなダイアリーのリンクを次々にコマンド+クリックしていくと、新規タブがずらずらと開かれる。感想や批評…そこからさらに関連リンクへ…トラックバック先へ…コメントした人の日記へ…関連する2ちゃんねるのスレへ…
気付くと、FireFoxのウインドウにはクリックしづらいほどにタブが並んでる。さすがに重くなってきた気がするのでウインドウを閉じて、目を閉じる。まぶたの裏ではチカチカ光が点滅している。

まったくいつまでもよどみなくどこまでも話し続け書き続けますね、君たちは。私たちは。

継ぎ目のない言葉の編み目にすっかり捕まって抜けだせないような感覚にとらわれる。
この感覚は、別に新しいものじゃないと思う。印刷技術が登場して以来…たとえば大きな図書館の中で似たようなことを感じた人は多いはず。全ては既にどこかの誰かによって書かれてしまった、語られてしまったという錯覚…錯覚だと思うのだけど…その感覚はどんどん強くなる。それは日々技術によって強化され、加速されている模様。

そして毎日言葉や情報のつながりを辿っていると、物事の価値や意味はすべて情報を素材として"仮構"されているように感じてくる。リアリティは常に仮のもの、すべての議論は空中楼閣だ。私達が手にするのは常に二次情報以降の情報で、一番最初の情報がうまれる現場は、神秘的なマトリックスの向こう側にあって、捉えがたい。

堅固な現実の基盤を感じられなくなったのは寂しいけど、その分自由になったのかもしれない。webに溢れる莫大な情報をカットアップすれば文字どおりあらゆることを読み取ることが可能だ。全部ほんとで全部嘘。お好みのリアリティが選択可能。そりゃ面白い。

…いや、このリアリティの自由は本来はすてきなはずだと思うんですが、実際にはウヨだのサヨだのオタだの脱オタだのトンデモだのゲーム脳だの自己啓発マニアだの、つまらん政治ばっかしが目立つ気が。
私の目線が低すぎるからか。もっと大所高所を見れば、予想もしなかったような壮大な闘争、劇的な時代の変化が起きていたりするのだろうか。そうかもしれん。高いところが見えない小人は哀しい。

先日炎上したあるブログ(http://blog.livedoor.jp/mahorobasuke/archives/50496546.html)から

※炎上の経緯はhttp://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060225を参照

 私にとってここは、好き勝手な言葉を吐き散らかすゴミ箱のような場所。
 誰かに読んでもらおうなんてさらさら思ってないから、友人、家族、誰にも教えてないし、思いついたまま、気がついたときだけしか書かない。 書いても読み返さないから誤字脱字、変換ミス、てにをはがおかしい箇所があるけど、気がづいても訂正してません。

 「虐殺を見た人の証言を聞いた」というなら、その証人が本当のことを話しているとどうやって確認とったのかな?
 もし、あなたが何らかの公的な書類をその目で見たことがあるなら。調査が適切に行われたのか、文書が捏造されてないか、検証しましたか?

 どんな情報でも、自分が信じるだけならまだしも、他人にその情報を押し付けるのなら、その精度には責任を持つべきではないのかしら。 

 あなたが信じているその情報、本当に正しいの?

前の引用では、書き手の言葉が書き手にとってはとるにたらないもの、読まれる事も期待しない「ゴミ」であるという宣言がなされている。後の引用では、全ての情報に対する強い懐疑主義が主張されている。両方あわせると、ある意味無敵の構えみたいなものになる。つまり、"私に対する批判は無駄だし、説得は常人には無理ですよ"宣言ですな。
まあ"無敵の人"の常として、炎上してますけど。

上のブログの内容には私はまったく共感しない。共感はしないけど、この書き手のこーゆー態度もまた、日々世界を覆って拡がり続けるシームレスな言葉の連なりに対する、一種の適応なのかもしれんなーなんてことをちょっと思ったりした。
自分の言葉がメディア空間では凡庸で無価値なことを自認してみせるかわりに、メディア空間の他のすべての言葉もその根拠は仮構されたものでしかないことを指摘すること。そうやって、自分の言葉の根拠のようなものをかろうじて確保する、というやりかた。

私はこの書き手に、自分が抱えているある種の貧しさと同じものを見た。
まあこれは私が勝手に投影してるだけだけですが。

どうも私は、自分の影をあちこちで見がちのようだ。自意識過剰ってやつですか。知ってるよそれは。
と自問自答しがちなのもこのヤマイの特徴だな。
西に行っては自分の意見がよそのblogで既に書かれていることを発見し、
東に行っては炎上しているblog主に自分の影を見つけ…

だいぶ前にこんな言葉を知った。

もにょる【もにょる】[自](同人コミケ

背中がむずむずするような気持ちのこと。はっきりとした言葉にできない、
感覚的なひっかかりを表すのに使われる。
「へぼい本を読むとおなかがもにょもにょします」という名言(?)とともに立てられた
「へぼい本を読むと」というスレッドで生まれた。
元は誉め言葉だったが現在は「納得いかない」「不快」のようなネガティブな意味で使われることが多い。
元は「もごもごする」「もやもやする」か?
http://www.media-k.co.jp/jiten/wiki.cgi?%A1%E3%A4%E2%A1%E4#i40

同人の世界のことは知りませんが、この「もにょる」という言葉の語感はなんだかしっくりくる。意味もよく分かる気がする。あれでしょ、あの感じ。おなかより喉元がもにょもにょするな、私は。
いやまあ思いっきり元の意味から誤解してるのかもしれませんが。

私は同人誌は読まないけど、同人誌と同じようにアマチュアが書いたwebの文章は毎日大量に読んでいる。いや、アマチュアかどうかはわからんな。blog書いてるのはプロのライターさんも多い…まあしかし、blogに書かれている言葉は出版物に比べるとアマチュア側に近い。プロとアマを隔てるはっきりした溝がない。私も書いてるわけですしね、blog。

へぼい文章はプロだって書く。でも、プロのヘボさに対してはあまりもにょらない。もにょってしまうのは、自分と同じ側に属するアマチュアのヘボを見たときだ。まず、あ、ヒドイ、すごくヒドイねこれは、と思う。それで笑うか怒るかしたいんだけど、どっちもできない。そのヒドさ、ヘボさの根っこは自分にも繋がってるのを知ってるからだ。このヘボい文章の書き手は、ひょっとすると、いやそんなことはないと信じたいけどまかり間違えば、私だったかもしれない。だから怒れない、笑えない。
書き手と読み手がシームレスにつながっていることが、"もにょる"原因の一つではないかと思う。

いやまあ思いっきり元の意味から誤解してるのかもしれませんが。と再び。

最近だと例のはあちゅうさんの人間力up云々の日記とそれに対するはてブコメントの反応を読んでて、私はもにょったりもにょらなかったりした。

この文章を読んでもにょってる人もいるのだろうな。そんなことを考えてもどーなるもんでもないが。
でもたとえば会社組織の中にいてうんざりしたことのない人って、多分どこか不健全だと思う。同じようにblogの文章を読んでもにょったことのない人はどっかマズイのではないだろうか。

もにょってる時私は、私のいる場所から続くシームレスな言葉の連なりに爪を立てようとしてるのではないかと思う。あの感じは不快だけど、大事なんじゃないか。