ふと思ったが

夏目房之介さんは吾妻ひでお失踪日記」の書評を書いてないのかな。
書いてくれたらいいなーと思ってるんですが。

夏目さんは「手塚治虫はどこにいる」の最終章で、手塚の描線が“生命の視線”に基づくものであること、そして水木しげる大友克洋の絵には手塚の世界観を相対化する“死の視線”があることを指摘してる。
失踪日記」の面白さの一つは、つげ義春的な彼岸の世界に接近していく作者の様子が、手塚的な生命感に溢れた描線で描写されてることだと思う。
失踪にしろアル中にしろ、緩慢な自殺というか自分を消したいという気持ちが根にあるんだろう。でも「失踪日記」の主人公は消えてしまうことはできない。それは、吾妻さんの手塚的な絵のモードが、そこに描かれたキャラクターがつげ義春的な“あっち側”に消えていくことをあらかじめ禁じてるからだ。
もし吾妻さんが「失踪日記」のような内容をつげ義春の絵で描くことができるんなら、失踪願望は作品の中に昇華されて、実際に失踪しなくてもすんだんじゃないか、とも思う。
でも、吾妻さんがビッグマイナーとも呼ばれるカルトマンガ家になりえたのは、その生命感=エロスを豊かに持った描線のせいなんだな。そのへんにどうしようもないジレンマがあるような気がする。

そのへん考えると夏目先生の手塚論ともつながってくる気がするので、書評書かないのかなと。