大江健三郎『文学ノート』より

『文学ノート』は大江が長編『洪水は我が魂に及び』を書いてるときに並行して執筆した、「小説を書くこと」についての一連のエッセイ。だいぶ前にブックオフで買って積ん読だった。
その中の『書かれる言葉の創世記』という章に出てくるエピソードが面白かったので抜き書き。
この章自体は、小説の中で作家が言葉を書いている"現在"を提示しようとする必然について書かれていて、高橋源一郎保坂和志の小説論とも通じるところがあると思う。

(…)ある夏、僕は、もしきみが自分の小説を読んで雑誌に紹介しなければ頸をくくるぞ、という同一の内容の手紙を、春からずっとおくりつけてきていた「作家」とむかいあっていた。われわれの前には堅固にたばねられた原稿用紙の束があった。その一枚目に一行、おれは小説を書く、と書きこんである。そしてそれだけだ。それからあとはずっと白紙で(かれは僕が一枚一枚、その真白な原稿用紙を、それもゆっくり繰ってゆかないと、じつに恐ろしい眼で睨むのだ)、そしてこれは僕も一種の感銘を受けたのだが、最後のページの末尾に一行、おれは小説を書いた、と記してあるのであった。僕が読みおわると、「作家」はすぐさま雑誌社に紹介の電話をかけるようにとうながした。そして、きみは小説を実際になにひとつ書いていないではないか、と訊ねると、おれがいまここにいるじゃないか、雑誌に発表されることさえ約束がとれれば、この、おれは小説を書く、と、おれは小説を書いた、とのあいだを文字で埋める。その小説は、ほら、おれのうちにいま実在している、おれを見ろ、疑うのか? と「作家」は怒るのであった。しばらくたって、ある雑誌の小説公募に、この約束手形のかたちの小説が、投稿されてきた、という噂を聞いたものである。
 僕はあの隠れたる「作家」が実際に白い原稿用紙をその小説でうずめる日があるかどうかを知らない。しかし白い原稿用紙をゆっくり繰りながら、僕はその「作家」の表現への渇望についてだけは、まことに濃密に実感したのであって、やはりあの時、白い原稿用紙をつうじて、あの「作家」が僕にたいして自己表現をおこないつくしたのであったことを、いまは疑わないのである。最後には僕に殴りかかる「作家」をなんとか押し出そうとする僕と、みじめで悲しい訣別がおこなわれたのではあったが。この隠れたる「作家」は、ペンを握る右手の三本の指を、聖化するためであろう、緑色のポスター・カラーで塗りつぶしているのであった。かれはすくなくともあの夏の日、白い原稿用紙を前にして僕を見張っていた一時間の、かれ自身の、この現実世界での実在感ほどのものを、僕にたいして、そのついに完成された小説によって再現することはできぬだろう。
(『文学ノート』大江健三郎、新潮社、1974年)

まあ大方はフィクションだとは思いますが(指三本を緑に塗ってたとかさ…)、しかし「作家」に睨まれながら真っ白な原稿用紙をゆっくり"読む"大江健三郎を想像すると可笑しい。
真っ白な原稿用紙を前に大江と対峙する「作家」の姿には、こないだ観た映画『立候補』でのマック赤坂の、政治的主張は特になさそうなのに時にその背中に漲っていた、切実な訴えの感覚を思い出したりもする。

風立ちぬ

箇条書きでメモ

    • 『ポニョ』以上に監督の脳内世界へ没入した感があって観終わった後影響が抜けない。夢と現実が交錯する作りなので"夢酔い"する。リアリティのラインが宮崎駿だけに許される自在さで動いている。
    • 音響がモノラルで人の声を多用しているのが、監督と二人っきりの部屋に閉じ込められて耳元で語られているような効果を生んでいる。そんなの怖いと思われるかもしれませんが、実際怖い。
    • "戦前の日本萌え"映画としては凄いものがあると思う。そのへんの昭和ノスタルジー映画なんて目じゃない美しい日本が本気で描かれている。
    • モブシーンが多くてにぎやかだが、主要登場人物以外は背景のレイヤーにいて関わってこない感覚がある。このレイヤー感覚、背景との隔絶は『ポニョ』でもちょっと感じたが衰弱なのか作風の変化なのかわからんとこがある。
    • 主人公とヒロインと主人公の妹が成人しても"少年少女の顔"を持ってるのがどこか不気味なのだけど、この不気味さを完遂するのが宮崎駿であり日本のアニメーションだよな。
    • そのヒロインの顔が大写しになる所で観客席を見るとこの映画の監督が真っ白になって動かなくなっていた、というのがこの映画の正しい終わり方のような気もしますが。
    • 観客をわりと本気で殺しにかかってる映画なのではなかろーか。
    • だからこそのコピー"生きねば" お、おう…
    • 些細ながら気になったとこ:スーツの上着を着たまま製図したら袖が汚れませんかね。

立候補


泡沫候補と呼ばれる人たちのドキュメンタリー。
外山恒一の有名なテレビでの演説から映画は始まる。
それから2011年、大阪府議選でのいわゆる泡沫候補達の選挙活動の様子が映し出される。
大阪府庁の前で始めるマック赤坂の選挙演説、"Do The Hastle"にあわせて踊りだす彼のビザールとしか言いようのない空気に笑いながらちょっと感動する。D.リンチの映画みたいだ。
泡沫候補の人たちはみな奇怪で面妖だ。なかには供託金300万円払って立候補したにもかかわらず、家に閉じこもって一切選挙活動を行わない人もいる。意味がわからない。
選挙カーもマイクも持たず、繁華街の交差点で行き交う人にひたすら笑顔で挨拶を繰り返すだけのおじさんもいる。確かに人はよさそうだが、傍から見ると街の不審者だ。
不審者というなら、駅の通路で許可無くタンバリン持って踊り出す人もいる。マック赤坂だ。
そんな諸々の場面を笑いながら観るのだが、次第にグッと気持ちを引きこまれてくる。
泡沫候補の人たちも、別に世の中に笑われるために立候補したわけではない。
じゃあ何のために立候補したのかというと、この映画を見ても実はよくわからない。安易に言葉にすると嘘になってしまうものに彼らが動かされていることは何となく分かる。
泡沫候補でない"ちゃんとした"候補たち、維新や自民の人たちは対照的だ。彼らは選挙カーの上で自分たちの政策を、理念を、滞り無く述べる。
選挙が試験だとしたら、"ちゃんとした"候補たちは合格点以上の点で争っている。
泡沫候補たちは最初から赤点以下の答案を提出している。
候補者の答案を採点しているシステムが私たちの社会の集団的な政治的理性というやつだとしたら、それはそれなりの正当性はあるのだろう。それが社会を動かしているのだから。
だけど、しかし、それでも、そのシステムに完全に適応し、常に合格点以上の点数を出している"ちゃんとした"人々の顔は、何かひどく嫌なところがないか。いや、これはこれで理不尽な非難だろうけど。
泡沫候補として立つ、ということは、そのシステムの外側に近いところに立つということだ。泡沫候補に寄り添ったこの映画のカメラは、システムの辺境の風景を捉えることになる。そこではシステムの中枢とは別の風が吹いている。
高橋源一郎はこの映画について『ぼくらはみんな「泡沫」だ』と書いている
そのとおりだと思う。
映画として普通に面白く、最後にガツンとくるものがあります。広くおすすめしたい映画でした。

Jason Thompson's House of 1000 Manga での『フランケン・ふらん』の記事

前から木々津克久フランケン・ふらん』は好きだったんだけど、ここ数日なぜだか知らんが自分の中でブームが再燃して漫画を読み返したり検索してレビューを読んだりしてた。その中で気づいたんだけど英語圏にも結構ファンが居るねこの作品。自分の好きな漫画のファンが海外にもいると嬉しいですな。もっとも『フランケン・ふらん』は公式には英訳されていないので(独訳はある)、主にスキャンレーションによって知られているわけですが。

Anime News Network の Jason Thompson 氏の記事を訳してみた。例によって訳はかなりてきとうであります。
http://www.animenewsnetwork.com/house-of-1000-manga/2013-05-02

「私たちは科学の発展と人類の幸福のために戦っているの! 幸福を目指すためにも実験が必要です!*1」 
マンガ界には最高に偉大なるマッド・サイエンティストが二人いる。一人は岸和田博士(トニーたけざき『岸和田博士の科学的愛情』)…だが私の目下のお気に入りはもう一人のほう、木々津克久の『フランケン・ふらん』だ。キャラクターデザインの面では、ふらんは縫い目だらけの萌え美少女というルックスで、フランケンシュタインと『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』のサリーとの混血というところだ。彼女の身体は万全とは言いがたく、たまにかけらを落っことしたりする。こちらで目玉がポロリ、あちらで縫い目がパラリ、という調子。彼女はちょっとぼんやりしてるところがあって、よろよろ歩きまわる間、彼女の頭は"ふらふら"揺れている。"ふらふら"というのは日本語の擬態語で、彼女の名前の由来のひとつだとわかる。しかしいったん手術シーンになると、ふらんは最強である。シリコンやナノマシンや切削工具を使って巨大ロボットだの超兵器だのを作ることは誰でもやるが、ふらんは医者だ。彼女は人体とか血とか骨とか、ねとねとぐちゃぐちゃした素材を使うのだ。人々は、自分たちのかかえる難しい医学的問題を、きっと解決してくれると考えて彼女のもとを訪れる。もちろんその解決は、恐ろしくも意図しなかった皮肉な結末をもたらすことになるのだが…

フランケン・ふらん』はジャンルのツボを押さえたメディカル・ボディ・ホラー・マンガだ。すなわち気の利いたストーリー、驚きの結末、そして絶対に見たくなかったような酷い事態の描写。グーグルで"franken fran"を画像検索したら忘れがたい結果になるだろう。ついでに仕事をクビになるかもしれない。グーグル画像検索はこういうときヤバいと思う。このマンガでは、一団の人々が顔のところでひとつに縫い合わせられたりする。若さを永遠に保ちたいと思った女性が、生けるがん細胞で出来た不死の肉塊になる。一人の人間の身体機能を代替するために工業施設が建造される。消化器系がひとつの工場、神経系はケーブルとワイヤーという具合だ。獣人に改造される人々もいる。よだれを垂らす犬のような怪物や…あるいは、生ける毛皮スーツの中に脳を移植されたキグルミに…あるいは、人間の頭を持つ巨大な芋虫に…

驚くことに、ふらんは本物のマッド・サイエンティストではない。最初に彼女自身が言うように、彼女は本物の科学者の助手にすぎない。本物の科学者というのは悪名高き天才/生物学者戦争犯罪人の斑木直光だが、彼は現在長期旅行中である。彼の留守の間、ふらんは人里離れた山奥にある彼の邸宅と研究所を守らねばならない。手術の際には必要な腕を余計に移植ししたりしながらも、彼女はうまく研究所を運営している。彼女は社会からまったく孤立しているというわけでもなく、たまに日本の医学学会で発表することもあるが、おおむね彼女は、無口で図体の大きい、マスクをした部下たちの一団と一緒に暮らしている。彼女の第一の助手は、猫の体に美少年の頭を移植された沖田だ。第二の助手はアドレアだが、この女性は全身を包帯で覆っている。包帯を取れば見えるのはジッパー(液漏れしてる)だらけの肉体で、ふらんはここから移植用の内蔵を簡単に取り出すことができる。アドレアは生けるジップロック・バッグというわけだ(彼女の最悪の部分についてはあえて触れない)。シリーズが進むにつれて研究所の仲間は増える。斑木博士の新たな創造物、ヴェロニカ。縫い目のある小さな女の子で、博士は彼女を究極の殺人者として設計した。そしてガブリール、サメの歯を持つ女性で、究極の"究極の殺人者"として設計された…かわいそうなヴェロニカを1998年版のボンダイブルーiMacだとしたら、ガブリールは2013年版のiMacのようなものである。

このグループが悪事を企んでいたら世界はやっかいなことになっていただろう、。しかし心配ご無用。それはない。いや、ほんとに。最高のマッド・サイエンティストがそうであるように、ふらんは「エイリアンをやっつける」とか「人類補完計画の実現」とかいうような狭い目標を持ってはいない。彼女は理想主義者であり、科学をよりよき世界と人々の命を救うことに使いたいと思っている。この点で、彼女は手塚治虫ブラック・ジャック、顔に縫い目のあるスーパー外科医によく似ている。実際、『フランケン・ふらん』の多くのエピソードは基本的に『ブラック・ジャック』のパターンをなぞっていて、最初のエピソードからして、金持ちの男が自動車事故で無くなった息子を救って欲しいとふらんに依頼するというものだ。とはいえ両者の違いはといえば、ふらんの方はいわゆる"クオリティ・オブ・ライフ"に試練を与えることがあるということだ。彼女は人々を生き続けさせることのみを気にかけている。それがどんなに酷い、歪んだ生になろうとも。「救うことができるかぎり死なせる訳にはいかないわ*2」彼女は人々を傷つけようとしているのではない。彼女はただ…価値観が独自なのだ。ふらんの生命を保護することへの狂信には冷血な殺人者であるヴェロニカも戦慄するほどで、この漫画において本当に恐ろしいキャラクターが誰かということに疑いの余地はないだろう。

メディカル・ホラー漫画として、この作品の20%は医療、80%はホラーである。木々津は明らかにホラーファンで(最初の方の巻末にはおまけとして各話1・2ページのーーそれでもぞっとするーーホラーの超短編が掲載されている)、このシリーズはホラーファンの内輪向けジョークでいっぱいだ。ある回では登場人物たちが人肉を食うゾンビから逃れてショッピング・モールに避難し、それはまるで映画『ドーン・オブ・ザ・デッド』みたいだが、木々津はさらに酷いアレンジを加える。鯨のようなモンスターが海から日本に上陸する回は、ゲゲゲの鬼太郎のある物語*3を思い起こさせる。視力を失いつつある画家の物語は『沙耶の唄』が元ネタ、あるいはこのギャルゲが下敷きにしている手塚治虫火の鳥』のエピソードが元ネタというほうがいいかもしれない。大富豪が離れ小島に私設の楽園をつくる話は江戸川乱歩『パノラマ島奇譚』へのオマージュもどきである。『パノラマ島奇譚』は最近丸尾末広が漫画化したのだが、これは他の漫画家が不気味さにおいて木々津を追い抜いた稀な例の一つだ。しかし木々津のマニア性はSFやホラーや諸々の奇妙な科学的事実のさらに上をいく。このマンガは空飛ぶスパゲッティ・モンスター*4を題材にした私の知る限りでは唯一のマンガである。

フランケン・ふらん』は単行本で8巻分の長さにわたって青年漫画誌のチャンピオンREDで連載された。グロで変態な作品で満ちていたこの唯一無二の雑誌の中では、この作品が常に一番病的な作品だったというわけではない(たとえば、これから読もうという人の気持ちを萎えさせるつもりはないが、このマンガには成人を授乳させるようなシーン*5はない)。ふらんと他の女性キャラが半裸で登場する単行本のカバーはいかにもファンサービスという感じで、実際以上にエロく見せかけている。いくつかの回ではセックスが取り上げられていて、たとえば「Lust」では、ふらんのいる高校の女子が、常にサカりがついいていてセクハラばかりしかけてくる男子たちをどうにかしてくれとふらんに頼む(ふらんの手にかかるとフェロモンはデビッド・クローネンバーグもたじろぐような作用を引き起こす)。『フランケン・ふらん』に弱いところがあるとすれば、それはプロットが充分でないというところだろう。繰り返し出てくるキャラクターは何人かいて、ひどく不運な女性警官である久宝もその一人だが、彼女はふらんのしでかした結果を後始末させられる。しかし、ふらんに対置されるような敵対者はおらず(まあ皆がそうといえばそうなのだが)、クライマックスに向かっての盛上がりもない。それでも、いくつかの回では悲惨な結末が後の回まで影響をおよぼす。二人のボーイフレンドのどちらを選ぶか決めかねた女の子に、ふらんは分裂の能力を与え、女の子は一卵性の双子として分裂する…しかし話はそこでは終わらず、その後すぐ、ふらんはある極端な処置をとらざるをえなくなる。というのも、数百万の無性生殖するクローンの群れによる人口増加が、地球への脅威となってしまうからだ。別の話では、ふらんは簡易な出産方法を開発する。女性が未成熟な赤ちゃんを幼虫のような形で出産できるようにし、妊娠期間中常にお腹の中に抱える代わりに子宮の外で育てるのだ…しかし蛹が孵った時、親たちは不愉快な驚きに襲われ、幼虫で子供を生む流行は失敗で終わる(もっとも、それはふらんのせいではない。おおむねうまくいっていたのだ)。着ぐるみにまつわる一連の話に至っては、話はどうしようもなくもつれて手に負えないことになる。

悲しいことに、『フランケン・ふらん』は(岸和田博士のように)今までの所一度も公式に英訳されていない。だからこの文章もライセンスされていないスキャンレーションに基づいて書かざるをえなかったのだが、これはこのコラムでは初めてのことだ。読者は、良い日本書店に行けば『フランケン・ふらん』の単行本を入手できるだろう。率直に言って(すまないが、言わずにおれない)、なんで連載中にどこかの出版社がこの作品をライセンスしておかなかったのか理解できない。しかし日本での連載は終了し、全巻が違法にスキャンレーションされた現在、もはや出版社がこの作品を正式にライセンスすることはなさそうだ。木々津克久(見たところこの漫画家はウェブサイトもtwitterも無いようだ)は『フランケン・ふらん』のスキャンレーションから一円も得ていない。一方インターネットはこの作品を消費し、ページを食らって血肉にし、はたまたインターネット・ミームやTVTrope*6の記事にしているわけである。これはまさに、意図せざる皮肉な結末だ。

*1:14話のふらんがヴェロニカにいう台詞(「科学の発展と人類の幸福!」以下)がスキャンレーションではこのように訳されている

*2:14話の台詞「私が助けるのも止めないでほしいわ」のスキャンレーションでの訳

*3:墓場鬼太郎の『大海獣』ですかね

*4:wikipedia:空飛ぶスパゲッティ・モンスター教

*5:同誌に連載されていたwikipedia:聖痕のクェイサーのこと

*6:wikipedia:TV Tropes

TextMixer

というものを作った。
http://dice.que.jp/textmixer.html

ページ下の説明に書いてるけどAとBの文章をミキシングするツールです。「文章のクロスフェード」というのをやってみたくて作った。

ソースとして使う文章は語彙や文体に特徴のあるほうが面白いです。
安定して面白いのは官能小説だったりするけど、その結果はちょっと公開しづらいな。
以下に実行例をいくつか。
ガンダムギレン・ザビの演説とハゲに関する週刊プレイボーイの記事*1クロスフェード

我々は一人の英雄を失った。これは敗北を意味するのか?否!始まりなのだ!

地球連邦に比べ我がジオンの国力は30分の1以下である。にも関わらず「ハゲまで戦い抜い=こられたのは何故か!諸君!我がジオンの戦争目的が正しいからだカッコ

一握りのエリート悪い」ジオン公国の掲げる、人類一人の図式。

私の弟、諸君らが愛してくれたガルマ・ザビは死んだこれ何故だ!

戦いはやや落着いた。諸君らはこのくつがえ地球連邦は聖なる)すののは汚して生き残ろなかなかている。 はその愚かし

だ地球連邦のが共に教えねばならん、だ。「ハゲこそは、は素晴らしい考えを!」という

イメージ我々を上書きすればの軍備はます? 実はます復興ハゲしつついるある。は地球て連邦軍とてこののままではあるの

まい。

諸君生物学的のも証明されるオスのハゲが父も兄も

、先生連邦ハゲての男無思ほうが慮はな抵抗もしれないってのこと前か?



「はい。この勝利をこそする、体戦死活発な人は、善玉者ホルモンと一緒に、

全男性ホルモンでてへの最大してしまいのつまり、よ男らしくもありAGA(男性型脱毛症)にもなりやすい。

ハゲと男らしさは、表裏一体です。



ただ、男らしい体質ですから、闘争本能も非常に高く、競争に勝とうとする。ですから、将来的には

エリートになる確率が高いんです。


蓮實重彦による東大入学式式辞*2ヘルシングの少佐の演説のクロスフェード

 新入生の皆さん。あなたがたは、いま、東京大学の一員になろうとしておられます。それが

ここにおられる一人戦車とりに、驚きにみちた豊かな体験を約束するものであってほしい。わたくし悲鳴は、心からそう祈らずにはおられません。

 外国からの

41名を含めた3,425人の若い男女を迎え入れること 、東京大学は、今年もMGその年ごとでよみがえりのなぎに立ち会おうとしております。1877
、すなわち明治1銃剣年 4月12日という、いまから正確に122年前に先をたわたくしたちの大学では、毎年、その創立記念日に入学式がとり行われることにそろえております。

することで、起源となった瞬間をともに反復しあいながら、同時恐慌、新たな出会いをも祝福するというならわし状態、ひとつの伝統のしたのであります。その意味で

この敗北式主義機能の逃亡たんなる兵達のを街灯つきる上でにない吊るしおわかりいただけるはずです。その決して短くはない歴史

通して、この大学のいたるところで旺盛泣き叫ぶ虜兵され達きが知的 試みが、未来に向け私のさらなる充実をめざしての降り下ろ濃密なした手維持さのている平とを改めて確かめあうともに。その限りにおいて、ここに
一 金切り声とりの男女は、それぞれにをた上げるシュマイザーにやがて 化さばたばことたとだろう薙ぎ倒さの多様なれるの応じて、東京もの予測し最高たい未来の豊饒化だ。あなた

哀れは、いまこの瞬間な抵抗そうし者達 が 個体雑多、自分なを位置づける小火器でできるはずなの健気どうか0cm列車、 そのこと.のt誇りとが責任都市区画ごとと微塵にをし、時充分絶頂すらに



 何があなた露助機甲師団大学に滅茶苦茶たのかにもとよりわたくしされるのが好き知ることができません。しかし、それが、言葉だっに村々がは到底つくせ ぬほどが犯され複雑多岐にわたる様は ものもとてで悲しいあろうここ英米におられるに一れ人殲滅されるのが好きだ。

「新入生」

諸君な で私は戦争を 晴れ地獄にのだろう多様様な戦争を望んでことをいる。あなたが

諸君迎え よ私に付き従う大隊戦友諸君。

君達は一体 何「望んで東大」

更でなる戦争を望むか?。

情け容赦のない 糞さの様な戦争を望むか?。

鉄風雷火の限りを尽くし 三千世界のここをにおられる一の様な闘争人望むか?。

よろしい  ならば戦争だ。

カットアップモードでスライダーを動かすと語彙とか文体がすり替わっていく様子がなんとなくわかります。
カットアップによるハスミ100%から少佐100%への移行。

実際、わたくしは耐えて、わたくしは、共感と、東京大学という社会となっており、年長者による若さは到底つくせぬからにあえている自分自身を開かせる潜在性を含めただきたかった。そうすることへの悪さは、具体的に目論んであります。なるもので総称さが、この入学式が、言葉を送ろうとしているわたくしは思いません。

 わたくしに遠ざけることを前には、具体的に滅茶苦茶における儀式を前に100年、その好ましい変化にあえてやる。その緊張せざるを確認しえただきたいからで鮮明にはありませんし、東京大学の知れた砲兵の限りにしがた時など感動すら覚えるしかありとは、違和感や芸術的なものだたせる役割を前提にあえておられるの知性を期待しが無視してきた新入生というべき立場に入学式がた時など絶頂すら覚えるしかありとの様など感動すら覚える。また、この大学の率直な抵抗者達 の機甲師団にも悲しいものとその動機をつかんであろうとしている連中にされ殺されておられるの古強者による対象へと私はもうたまらない。この地上で半世紀もの間 4月10年ごと、親密さの様など絶頂すら覚える。

哀れな試みが大好きだ。

一千人ひとりが好きだ。

征くぞ  砂漠で行われるのが好きだ。

恐慌状態の味を。

諸君 私の古強者だ。

突破戦があることを望んで総兵力を殺す 三千世界の新兵が好きだ。

うむ。やはり官能小説のほうが面白いかしれんな…

欲望のバージニア

音楽と脚本をニック・ケイヴがやってる。去年Youtubeでこのサントラを聴いたら、White Light / White Heat のカントリーヴァージョンがあった。パンク等の名曲をカントリーでカバーしてるらしい。これは観に行こうと思ってたが、こんな、うっかりみすごしそうな邦題になるとは思わなかった。原題はLawless。
禁酒法時代、バージニアで密造酒を作ってた男たちの話。
Lawlessは法が無いということだけど、禁酒法のような誰もが守れない法を作ると実質的な無法状態が訪れるというのはちょっと面白い。まあ当たり前ちゃ当たり前なんだが。
かつて戦争と疫病を生き延びたことから不死身と噂される三兄弟が、バージニアで密造酒を作っていた。彼らが無法の一時代をどう生き延びたか、という話で、こう要約するとなんだかタフな男たちのタフな物語みたいだけど、けれども、いや、だからこそ、なのか、三兄弟が自分たちのイノセンスをいかに守ったか、という話になっているのだった。
三兄弟の末っ子のシャイア・ラブーフつぶらな瞳はわかりやすくイノセントで、ああこいつが酷い目にあって兄たちが復讐するのか、それとも兄たちが酷い目にあって三男が復讐することでイノセンスを失うのか、などと思いながら観てたが、ストーリーは適度に予想をはぐらかしつつ進む。
タフガイな次男(トム・ハーディ)が意外な純情童貞マインドを示すあたりで、実はこいつが一番イノセントだったのかと思ったりもする。
というか、この映画でイノセンスというのは三兄弟にわけ持たれた特質なのだ。三兄弟の不死身ってのもそういうことなんだよな多分。彼らはタフなのではなく、自分たちが不死身だと信じられるくらい素朴で純情なのだ。
だからこれはタフでリアルな南部の"男"の歴史を語る映画に見えつつ、実は寓話的な"男の子"たちの物語で、結末もそのように閉じられる。

Nerd Girlの逆襲

前の記事書くときに検索してて引っかかった記事Idiot Nerd Girl | Know Your Memeがちょっとおもしろかったのでメモ。

インターネットで流行る馬鹿画像というのはたくさんある。2010年に登場した"自称オタクの馬鹿女"画像もその一つ。てのひらに「Nerd」と描いてみせた女の子の写真を、誰かがこんなふうに加工してネットにあげた。


自称オタク
WORLD OF WARCRAFTって何?」


バック・トゥ・ザ・フューチャー大好きよ!
"ギガワット"って何のこと?


私の好きなスーパーヒーロー?
多分X-マンかしら。ヒュー・ジャックマンはとってもすてき!

オタクぶってるのに浅い知識しかない女性を笑う、というフォーマットですね。
これが流行った2011年、UpRoxxというサイトは『自称オタクの馬鹿女はそこらの馬鹿よりもオタクじゃない、100%うんざりする』という記事で、一連の画像と共に"オタクに媚びる女たち"というYoutubeのビデオを紹介した。

テレビのトークショースター・ウォーズスタートレック等のファンだと言ってる女性たちを集めたものだけど、編集の意図はまあ、タイトルで分かる通り。嘲笑する気まんまん。

で、女性側からの反撃

2012年7月にFemispireというサイトが『オタク女だって本物のオタク!(そして、何故この流行がクソなのか)』という記事を公開し、この流行が "男に媚びるためにオタクぶっている女" というステレオタイプを助長していることを批判した。

8月にダーク・ホース・コミックスの編集者のRachel Edidinがこの画像の反撃ヴァージョンをtwitterに上げ始めた。



初心者のやりがちな過ち
"自称オタクの馬鹿女"


バットマンの全バックナンバー900冊なんて読んでないけど
あんたも読んでないでしょうが

彼女のアクションは反響を引き起こし、いくつかのサイトが記事にした。

現在ではこの流行は下火になっている模様。

PCやコミック、SF映画等にマニアックに熱中するのは基本的に男のものだというステレオタイプは何処も同じ、女性の側がそれに苛立つのも同様、ということのようですね。
日本だと、何ヶ月か前に町山さんのプチ炎上なんてのがあったのを思い出すなー(や、今更蒸し返すのもなんだけど)。